第5章 再会 



 
 
 
 
 

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ジェニーは、ケンに連絡を取ろうと必死にケンの居場所を探していた。あの日、プールサイドでケンに会って以来、既に3日が過ぎていた。
ケンが急いで、ジェニーの前から姿を消してから、ジェニーは彼と一緒にいた娘にケンの住所をたずねたが、彼女はケンとはまだ会ったばかりで、詳しい住所は知らない様子だった。
しかし、彼女からケンがベビーシッターをしているというマリーの住所を教えてもらった。
やっと探し当てたアパートの前で、ジェニーはマリーが帰ってくるのを待った。玄関の前でしばらく待っていると、突然中から出て来た中年の女性が、ジェニーの様子を見て、誰を待っているのかとたずねた。
「ああ、マリーなら7時までは帰らないよ。私は、これからマリーの子供のピエールを幼稚園まで連れて行くとこさ。」
といいながら、恰幅のいい、赤ら顔のその女性は陽気さを振りまきながら、アパートの前の坂を降りて行った。
ジェニーは、7時までにはまだ時間があると思ったが、一度家へ帰るのは面倒だったので、メトロの出口で見かけたエションジュリーブルというカフェで時間を潰すことにした。

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彼女は、歩道に無造作に並べられたテーブルの一つが空いているのを見つけて座った。十字路の角に位置したそのカフェは、マリーのアパートの向かいにあり、ジェニーの行きつけのモンパルナスのカフェに比べるとこぢんまりしていて、いかにも下町風の感じがした。通りには、プラタナスの並木が夏の強い陽差しを受けてキラキラ輝いていた。
ジェニーの他は、皆、労働者風の客ばかりであった。
「何にしますか?」
ジェニーと同じ年頃の無愛想な痩せたウェイトレスが、注文を聞きに来た。
「カフェオレ」
ジェニーは、その娘の顔をちらりと見て、何て青ざめた顔をしているのだろうと思った。娘は栗色の長い髪を後ろで束ねていたが、その顔色のせいか10歳は老けて見えた。
「あなた、アメリカ人。」
隣のテーブルに座っていた、女性がジェニーの方に視線を投げかけ、たばこの煙をふっと一息吐くと、ハスキーな声でたずねた。
いかにもパリジェンヌといった風貌の女性は、その容姿には似つかわしくない胸元を広く開けた男性用のシャツにパンタロンという服装をしていた。
「ええ、そうよ。どうして分かったの。」

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ジェニーは、その女性の方を見ながら答えた。
「そうね、アクセントかしら……。私も、アメリカに住んだことがあるのよ。でも、黙ってたら分からないわね。」
と言いながら、右手に持っていたタバコを灰皿でもみ消した。
「失礼だけど、あなたは、タクシーの運転手?」
ジェニーは、その女性の服装とテーブルの上に置かれたタクシー帽から、そう判断した。
「ああ、これね。」
と言って、女性のタクシードライバーは、テーブルの上の帽子をかぶってみせた。
「女性のタクシードライバーって多いの?」
ジェニーは、興味深そうに訊ねた。
「そうね。詳しい数は知らないけど、結構いるんじゃないかしら。」
「その点では、ウーマンリブのアメリカよりも、フランスの方がはるかに進んでるみたいね……」
ジェニーは、本当にそう思った。
「あら、もうこんな時間。私、行かなくっちゃ。」
タクシードライバーは腕時計をちらりと見ると、そう言いながら慌ただしく前に止めてあった紺色のルノーに乗り込むと走り去って行った。

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マリーが帰って来たのは、7時を30分ほど過ぎてからだった。ドアのベルを鳴らすと、しばらくしてドアが開いて、中からジェニーより2つ、3つ年上に見える美しい女性が現れた。
「どなた?」
ジェニーは、マリーが自分の思っていたよりも、ずっときれいで若かったので一瞬とまどったが、
「ジェニー・ピーターソンです……。実は、今日は、ケンのことについて何か教えていただけないかと思って伺ったんです。ケンがあなたの所でベビーシッターをしていると聞いたものですから……」
ジェニーは、少し顔を紅潮させながら思い切ってしゃべった。
マリーは、ジェニーの話を聞いてしばらく黙っていたが、
「どうぞ、中へお入りなさい。」
と、ジェニーを部屋の中へ招き入れた。
マリーはジェニーを玄関の右手のリビングへ案内すると、窓際のソファーに座るように勧めた。
「あなたのことは、ケンから一度聞いたことがあるわ……。」
マリーはジェニーと向かい合わせに座って、たばこに火を点け、煙を一息に吸い込んで、しばらくして吐き出すと、やっと

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口を開いた。
「えっ? ケンが私の話を……。で、どんなことを話してたんです?」
ジェニーは、意外なことをマリーの口から聞いて、ますます困惑した。
果たしてケンとこの女性とは、どんな関係なのだろう。ケンが、何故自分のことを話題にしたのだろう。
色々な疑問が一度に湧いてきて、マリーに総てを問いただしたいような気がした。
「別にあなたの名前を直接、彼から聞いた訳じゃないけど、ただ一度だけ、ケンが寝言であなたの名前を言ったのを覚えているのよ……」
マリーは、今やっとケンが、何故、突然パリを離れたのか、分かったような気がした。
「えっ! 寝言でって……」
ジェニーは、一瞬、心臓をえぐられるような気がして、そのまま、その場に倒れてしまうのではないかと思った。こめかみの動脈が、心臓の鼓動に合わせて激しく拍動しているのが、向かいに座っているマリーにも分かった。
「ジェニー、勘違いしないで欲しいんだけど、ケンと私とは、別に何の関係もないのよ。ただ、ケンからパリへ発つ前の日、遅くなったので、ここへ一度だけ泊まって行ったのよ……。

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その時、うなされたように、ジェニーってあなたの名前を何度も呼んでいたわ。」
ジェニーは、マリーの言葉を聞いて、一瞬ほっとした。
「ケンは、もうパリにいないの?」
「ええ、2日前にパリを発ったわ……」
「行き先は?」
「私も、知らないの……。パリを発つ前の日に、もうベビーシッターが、できなくなったって突然いいに来たのよ。何度も理由をたずねたけど、教えてくれなかったわ。ただ、しばらくヨーロッパを旅行してみるって言っていたわ……」
マリーは右手のたばこを無造作に灰皿に押しつけながら言った。
「じゃあ、今、彼が、どこにいるのか誰も知らないんですか?」
ジェニーは、すがるような思いでたずねた。
「そうねえ……。ひょっとしたら、同じソルボンヌの友達のシャルルが知ってるかもしれないわ。」
 
マリーからシャルルの住所を聞いたジェニーは、翌日シャルルを訪ねたが、シャルルもケンの居所は全く知らなかった。余りに落ち込んでいるジェニーを見てシャルルは、ケンから連絡があればジェニーにまっ先に連絡すると言って彼女を慰めた。

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シャルルから、ジェニーへ連絡が入ったのは、ひと月ほど経ってからのことであった。
「ジェニー? シャルルだ。グッドニュースだよ。ケンの居所が分かったんだ。」
シャルルは電話の向こうで幾分興奮気味にしゃべった。
ジェニーは、受話器を握ったまま心臓の鼓動の高まりを抑えることができなかった。 「で、今どこにいるの?」
ジェニーは、早く次の言葉が知りたかった。
「ローザンヌか、ジュネーブだと思うよ。」
受話器の向こうでシャルルが叫んだ。
「えっ? それ、一体どういう意味?」
ジェニーは、彼の言う意味がまだのみ込めなかった。
「今朝、ケンから手紙をもらったんだ。コペンハーゲンからのものだったけど、数日中に、ローザンヌかジュネーブのユースホステルに行くと書いてあったんだ。だから、多分、今頃はジュネーブかもしれないよ。だから今から行けば、きっと彼に会えると思うよ。グットラック!」
「シャルル、ありがとう。」
ジェニーは放心状態でしばらく、受話器を右手に持ったまま、その場に立ちつくしていた。
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ケンは、ソールズベリーを発ったあと、ヨーロッパ大陸へ戻り、北上して、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、ノルウェーとさらに足を延ばし、ローザンヌを経て、ジュネーブへ辿り着いた。パリを出てから、もう一か月が過ぎていた。
ジュネーブでは、ユースホステルに1週間滞在する予定であった。
朝早く、ジュネーブ駅に着いたケンは、高級時計店や宝石店の並ぶ駅前のメインストリートをレマン湖に向かって、真っ直ぐに降りていった。
湖の畔は、美しい散歩道になっていた。湖の中央には、高さ30mにものぼる人工の噴水が時折白い水煙を上げていた。
朝早いせいか観光客の姿はほとんどなかった。
ケンは、湖に面したヨットハーバーの前の公園のベンチに重いリュックを下ろすと、その横に座った。
まばゆいばかりの陽光が湖を照らし、木々の葉は、そよ風に心地よいメロディーをかなでていた。
時折、ショッピングをしたり、犬を散歩させたりする人々がケンの前を通り過ぎていったが、ケンは、これまでの旅行の中でこの場所が最も安らぎを覚えるような気がした。

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ケンは、リュックを背負ったまま、昼食も取らずにジュネーブの街をくまなく歩き回った。
ヒルトンホテルを横目に見ながら、石畳をユースホステルのある丘を目指してそこに続く坂を上りはじめた彼は、ふと足を止めた。
グレーの高級そうなスポーツカーが胸の奥まで届く低いエンジン音を響かせ突然坂の上から滑るように現れると10mほど離れた石畳の反対側の路上の楡の木の木陰に停まった。
ケンはあまり車には興味がなかったが、父のロレックスの時計と同様にこの車にだけは何か惹かれるものを感じた。地響きのようなエンジンが停まるとすぐに左側のドアが開き、赤いワンピースに身を包み、高級そうなサングラスを掛けた、彼より2、3歳は年上かと推測される背の高い美しい女性が、颯爽と車から降りて来た。
一見いかにも上流階級の出を思わせるその女性は、オレンジ色の革製のハンドバッグを持った方とは反対の手で、その重厚なドアを無造作に閉めると、鍵も掛けずにハイヒールの音だけを響かせ、ケンが今息せき切って上ってきたばかりの坂を街の中心部へと下りて行った。
ケンは、ふと “この女性はどんな生活をしているのだろうか?これからどこへ行くのだろうか?” などと考えたが、貧乏な自分の境遇に比べ、“こんな華やかそうな生活もあるんだな”

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“僕もこんな車に乗れるような日が来るのだろうか?” とその場に立ち尽くしたまま暫くぼんやりとしていた。
木陰で暫く休んだ後、気を取り直して重いバックパックを背負い直すとユースホステルを目指して再び歩き始めた。
今日見た車が "ポルシェ928" というスポーツカーであることを、随分後になって彼は偶然知ることになるのだが、この時はこの車がどこのどんな車であるのか知る由もなかった。
陽も落ち、辺りが薄暗くなり始めた頃、彼はようやくユースホステルへ着いた。 レマン湖から歩いて20〜30分の所にあるロココ風の威容を誇る建物が、彼の目指す今晩の宿であった。
遠くからその建物を眺めながら、ポプラ並木の連なる閑静な住宅街を歩いて行った。朝からまだ何も食べていないせいか、心なしか肩のリュックがいつもより重く感じられた。
彼はやっとのことで、その建物の門まで辿り着いた。
その建物は、多分、貴族か何かの屋敷だったに違いなく、門から玄関までは、まだ数十mは歩かねばならなかった。屋敷をぐるっと取り囲む庭には、一面に芝生が植えてあり、木々が夕暮れのそよ風を受けて優しく揺れていた。
若者たちは、庭のあちこちで、いくつかのグループになって、夕暮れの楽しい語らいのひとときを過ごしていた。
ケンは、同年配の青年と目が会うと明るくあいさつを交わした。

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玄関前の、石造りの階段には、髪を肩まで長く伸ばしたヒッピー風の数人の若者たちが、階段に腰かけてギターをひきながらフォークソングを歌っていた。


ケンは、その前まで来て急に立ち止まった。胸の鼓動が、一度に高まるのを彼は抑えることができなかった。
彼は、しばらくその場に立ちつくしたまま、もう一度、両眼を見開いて確かめた。
やはり、それは幻影ではなかった。それは紛れもなく、彼がずっと思い続けていたジェニーの姿であった。
ジェニーは、ケンが門を入ってくるところから、彼の姿に気付いていた。
今こうやって、数メートルの距離にいるケンの姿を見て、ここへ来て2日間待った甲斐があったと思った。
小麦色に日焼けした顔中ひげを生やしたケンは、彼女が初めて日本であった時より、随分とたくましく見えた。
ジェニーは、胸の中が急に何か熱い物で満たされるのを感じた。
二人は、その場でしばらく互いに見つめあったまま動こうとはしなかった。

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最初に話しかけたのは、ケンの方だった。
「ジェニー、どうして、君がここにいるんだい?」
ケンは、ジェニーの方へ歩み寄りながら尋ねた。
「ケン…、ここで2日間、あなたのことを待っていたのよ。」
ジェニーは目に涙を一杯あふれさせながら言った。
ケンには、一体どういうことなのか、全く見当がつかなかった。
どうして、今、自分の眼の前にジェニーがいるのか、そして何故、彼女が突然泣き出したのか……。
「ごめんなさいね。ケン!」
彼女はそう言いながら、階段の途中まで上りかけたケンに走り寄って、彼の胸に顔を埋めた。
ケンは、まだ、何が起こっているのか、全く分からなかったが、彼女をしばらくその腕の中に抱いたままその美しい髪を優しく撫でていた。 しばらくして、ジェニーは顔を上げると、まだ濡れた美しいブルーの瞳で、ケンをじっと見つめたまま言った。
「ケン、実はあの日のことをあなたに分かってもらうために、

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ここで待ってたのよ。」
「あの日のことって?」
ケンは、両手の親指で、彼女の涙をそっとぬぐいながら聞いた。
「コンコルド広場のプールでのことよ……。私が、フィアンセといって紹介したウェルターのこと覚えてる?」
彼女は、ケンの反応を確かめるように、恐る恐るたずねた。
「ああ、勿論さ……。覚えているとも、君のフィアンセなんだから……」
ケンは、やや意味ありげに答えた。
「彼のことなんだけど……、フィアンセっていうのは私の親が決めただけのことなの……。私は、あんな人となんか結婚しようなんて、全く考えてないわ、私は、あなたの事が好きなの!」
ジェニーは会えた喜びと、あの出来事のために、ここ数ヵ月間、苦しんで来た自分の気持ちを慰めるかのように一気に吐き出した。
ケンは一瞬、今度は自分の耳を疑った。
「ジェニー、君は今、何て言ったんだ? もう一度、言ってくれるかい……」
「ええ、何度でも言うわ。そのためにわざわざここまで来たんですもの……。ウォルターとは、結婚しません……。私は、あなたを愛してるのよ!」

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お互いの気持ちを確かめ合った二人は、一週間、ジュネーブに滞在して楽しい束の間の恋人同士の時間を過ごした。
朝早くからピクニックに出かけたり、ボートを借りて、レマン湖からチャップリンの別荘へ忍び込んで、番犬に危うく噛みつかれそうになったり、また、レンタカーを借りてアルプスの山道をドライブして、帰りにはローザンヌに住むケンの両親にも会いに寄った。
ガールフレンドを伴って、一段とたくましくなった、久しぶりに会う我が子に、父もアメリカの大学をやめて、ソルボンヌで勉強することを許してくれた。
何もかもがすべて順調で夢のようだった。一週間は、あっという間に過ぎ去った。
ケンは、この旅行をスペインで終わらせることにしていた。彼の祖母の国を一度訪れてみたかったからである。
ケンは、ジェニーとパリでの再会を約束して、彼女を先にパリへ帰し、自分は、スペインへの旅へ出発した。




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          第6章「運命」へ続く








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