第2章 出会い



 
 
 
 
 

前へ −17−   


「このバスは、ダンフェルト・ロシュロまで行きますか?」
オルリー空港で、ジェニーとケイトに別れを告げた後、ケンはバスでダウンタウンまで行くことにした。ケンの拙いフランス語に対して「ウィ。」と運転手は短く答え、自動ドアを無造作に閉めると、直ぐに車をスタートさせた。バスはどんどんスピードを上げ、優に100㎞は超えていると思われるスピードで、高速道路をぶっ飛ばした。ケンは、この運転手は暴走族よりもひどいと苦笑いした。30分も走ると美しいパリの街並みが車窓から見えて来て、ふっと故郷へ帰ったような懐かしい思いが込み上げてきた。
ケンはダンフェルト・ロシュロでバスを降りると、メトロ(地下鉄)の階段をかけ降りた。背中に15㎏のバックパックを背負っていたが、その重さは全く気にならなかった。
メトロをサンミッシェルまで乗り継ぐと、ソルボンヌ大学がある。ソルボンヌまでは全く初めてだった。
メトロの階段を昇るとサンミッシェル大通りへ出た。街は、学生風の若者であふれていた。階段の側の街頭にもたれてハーモニカを吹いている黒人青年がいた。ケンは近づくと
「ソルボンヌ大学はどう行くのか知ってるかい?」
と英語でたずねた。
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バスの中で、隣の席の中年の女性に話しかけられ、自分のフランス語の能力に落胆していたからである。
「オフコース(もちろん)。知ってるさ。」
とその背の高い黒ビカリする肌の青年は、自慢気に流暢な英語で答えた。多分、アフリカからの留学生だろうとケンは思った。
タンザニアから来たというその青年は、親切にもソルボンヌ大学まで着いてきてくれた。その道すがら彼は、自分の国のことやら、両親、兄弟のことを話し、今はソルボンヌで法律を勉強しているのだと自慢した。
ソルボンヌの門構えは、思ったよりも威風堂々として、威圧的であり歴史の重みを感じさせた。入り口の両脇には、2メートルはあると思われる衛兵のような格好をした仁王立ちの門番がいて、そのまま入ろうとするケン達を呼び止めたが、ケンには、そのフランス語はあまりに早くて聞きとれなかった。タンザニアの青年は、もっと早いスピードで、2言、3言、門番に答えるとケンに来いと手招きした。
ケンは、彼の導きで、大学の事務局へたどり着くと、入学の事務手続きをしたい旨、金縁の眼鏡をかけた意地の悪そうな中年女性に英語で告げた。

前へ −19−   

彼女は眼鏡越しにジロリとケンを見ると、黙って何枚かの書類をケンに差し出し、最後に話にかかった、発音を強調するかのようにフランス語で付け加えた。
「あなたの宿舎は、シテユニベルシテのプロバンス・ド・フランスよ。書類は明日でいいから、直接、寮へ行って早く入寮手続きをした方がいいと思うわよ。あそこは評判がいいから、早く行かないといい部屋は全部ふさがっちゃうわよ。」
見かけの割には案外やさしい所もあるんだな、今までの態度とはうって変わってやさしい言葉をかけられて、ケンはパリでの生活の第一歩をさわやな気持ちで踏み出した。
ソルボンヌまでついて来てくれた親切な黒人青年に別れを告げたケンは、サンミッシェル大通りから大学で教えられたようにバスに乗って、シテユニベルシテに向かった。
バスは、サンミッシェルの石畳を滑るように走り、学生たちであふれるカルチェラタンを横切るようにして、広い通りに出た。
ポプラの並木道に挟まれたその通りは高層のアパート群へと続き、さらにルクセンブルク公園の側を通っている。大学の女事務員が教えてくれた方向とは何となく違うような気がする。
バスの中にはあまり乗客もなく、また学生らしい者も見当たらない。ケンは隣の客に何度もバスのナンバーと行き先を尋ねたが、彼のフランス語ではあまり通じないようだ。

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とうとう、心配になって運転手のところまで走るバスの中をよろけながら行き、「このバス、シテユニベルシテまでいきますか?」と大きな声で訊ねた。
運転手はガムをかみながら
「ウィ。」
と答えて、それ以上何も反応はなかった。
仕方なく、もう一度座席に戻って、何度も窓から顔を出しては、生まれて初めて見る景色を眺めていた。
「心配するな。俺が連れて行ってやる。」
流暢な英語である。
ふと前を振り返ると、黒人にしてはかなり色白の鳶色の目をしたケンと同年代の青年が、こちらを見て微笑んでいた。
3つ目のバス停で、彼はケンに目で合図して、さっさと降りてしまった。
ケンは、あわてて足下に置いてあったバックパックを右肩に引っかけ、ジーンズのポケットから空港の替金所で替えていた小銭を料金入れに放り込むと、彼の後を追った。
「おーい、待ってくれよ。ありがとう、助かったよ。道がわからなくて困ってたんだ。僕は、ケンていうんだ。よろしく……」
「俺の名前は、シャルル…。チャールズと呼んでくれていいよ。ソルボンヌの法科の学生だ。で、君はシテユニベルシテに何の用なんだ。旅行者か?」

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「いや、実は僕も今日からソルボンヌで勉強することになったんだ。今から学生寮に行くとこなんだ。」
「そう、じゃあ留学生か? 国は? アメリカか?」
「いや、日本から来たんだ。」
「え、でも、日本人には見えないけど……」
「ハーフなんだ、父は日本だけど、母はドイツ。国籍はその両方さ。」
ふたりは、学生寮の建ち並ぶ白樺の木々と芝生に映えるキャンパスを、ゆっくりとした足取りで歩きながら、話を続けた。
「そうか、実は俺もハーフなんだ。父はフランス人だけど母はハイチ人なんだ。」
「え? ハイチって?」
「カリブ海の小さな島さ。」
「ああ、あのキューバの近くにある島のうちの一つか?」
「そうだ、母がアメリカに渡って父と知りあって、それで俺が生まれたって訳さ。だから俺も、フランス、アメリカ、ハイチの3つの国籍を持っているんだ。」
「だから、君はそんなきれいな鳶色の目をしているのか。」
ケンは、チャールズに初めて会ったときの印象を素直に言葉に表した。

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「君もあまり東洋人には見えないな。」
「うん、僕の父も祖先にフランス人の血が混ざっているらしいんだ。だからかな……」
「ところで、寮はどこなんだ?」
「プロバンス・ド・フランスとかなんとか言っていたけど……」
「じゃあ、俺の寮のすぐ側じゃないか。とはいっても、正確に言うと俺のじゃないけど……」
「どういう意味なんだ?」
「本当は、俺のガールフレンドの寮なんだ。三ヵ月前にちょっとしたことで寮から追い出されちまってね。今は、彼女のところでシャッキング・アップ(同棲)中って訳さ。」
チャールズはケンの方をちらっと見て、肩をすくめながら、左目でウィンクしてみせた。
 


どの位の時間眠ったんだろう。レースのカーテン越しに見える外は、まだ明るいようだ。
朝かな? それとも夕方かな? 枕元に置いてあった腕時計に手を伸ばして、時刻を確かめたが、まだ日本時間に合わせたままだったので、ネボケた頭ではすぐに時差を計算するのは無理だった。
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ベッドの上で背伸びをすると、体中の筋肉と骨がボキボキッと音をたて、一瞬このまま壊れてしまうのでははいかという錯覚に襲われた。ベッドからゆっくりと起き、床に投げ出してあった使い古しのジーンズと3年前に父からもらったウェイ・アウトのポロシャツを身につけ、廊下へ出てみた。数人の学生とすれ違ったが、最後に出会った女子学生に時間をたずねた。
「もう、6時よ」
とその女の子は明るく答えた。
「え? 朝の?」
「ノン、夕方のよ。」
「でも、外は明るいよ。」
「え、あなた外国人なの?」
「ああ、今日初めてここに来たんだ。」
「ああそう…。じゃ、まだ時差ボケね。今、サマータイムなのよ。だから暗くなるのは10時過ぎよ……」
「そうか、それじゃあ僕は、24時間以上も眠ってしまってたって訳か。」
それでもケンは、知らない間に24時間以上も眠ってしまってて、意識がなかったということがまだ信じられない気がした。
「ところで、悪いけど、シャワーはどこにあるの?」
「えっ、シャワーって何?」
と彼女はケンのフランス語が分からない風だった。

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「シャワー。シャワーッ。」
と繰り返すが通じない。
困ったと思いながら、ケンは、どう説明していいものか考えた。色々、言葉で説明したが、一向に通じる様子はない。
彼女も次第にいらだちを見せ始め、分からなければ他の学生に聞いてくれという。
最後にケンは、両手と体を使って3分間ジェスチャーをやったあげくに、やっとフランス語で「シャワー」が「ドゥーシュ」であるということを知った。先が思いやられたが、体で当たれば何でも出来るということも同時に悟った。
地下のカフェテリアは、朝の6時だというのにもう学生でいっぱいだった。
ペンキのはげかかった本立ての横にあるトレーを取ると学生の列に割り込み、コックが差し出すカフェオレとバターとそれにかちかちのフランスパンをそれぞれトレーの上に乗せた。どこのテーブルも、ほとんどいっぱいで、しばらく呆然とトレーをもったままその場に立ちつくしていたケンは、ブラウンの髪をポニーテールにまとめた、鼻の先がピンと空を見上げているように見える娘の横に席が空いているのを見つけた。
「イクスキュゼモア。ここあいていますか。」
ケンがたずねると
「ウィ。」と彼女は短く答えた。

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フランスパンの腹をナイフで2つに切り裂き、その柔らかい部分にバターを塗りながら、ケンはその娘に話しかけた。
「いつも、こんなに早くからこんなに混んでいるの?」
「ええ、いつもサマータイムはこんなものよ。みんな、夏休みでアルバイトに行く人が多いから。」
とその娘は答えた。
「僕はケン。昨日からソルボンヌの学生なんで、よろしく。」
「私、ミッシェル。私もソルボンヌで勉強しているの。あなたもこの寮に住んでいるの?」
「ああ、ここの北側の4階なんだ。君は?」
「じゃあ、私は、ちょうどあなたと向かい合わせの南の2階よ。」
ミッシェルは、バターとママレードをべったりと塗ったフランスパンを、ミルクをたっぷりと入れたカフェオレに浸すと、話を続けた。
「でも、あなたフランス人じゃないみたいね。どこから来たの?」
「ああ、僕のフランス語、最低だろう。大学で習っただけだから、会話は苦手なんだ。」

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「フランス語じゃないわよ。どこから来たかって聞いてるのよ。」
ミッシェルは、カフェオレにたっぷりと浸したパンを口へ運ぶと、がぶりとかぶりついた。
「日本。」
「え? でも日本人じゃないでしょう……」
「いや、日本人さ……。」
ミッシェルは、ママレードとバターを口の周りに付けたまま、ケンの顔を不思議そうにじっと見つめていた。
「正確に言えば、半分日本で、4分の1がドイツ、あとの4分の1がスペインさ。」
とケンは笑いながら、ミッシェルのママレードとバターのついた口元をながめていた。
「あ、そうだから、どこかエキゾチックな感じがするんだわ……」
あっそうそう、さっきのフランス語のことだけど、もし良かったら、私がレッスンしてあげるわ」
彼女は、ようやく口元のママレードとバターを紙ナプキンでぬぐいながらたずねた。 「あなた、夏休みなのに毎日どうするの?」
「アリアンス・フランゼーズで7月まで2ヶ月間勉強して、そのあとは1ヵ月ヨーロッパ中を旅行しようと思ってるんだ。

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そのために日本からユーレイルパスも買ってきているし、もしよかったら一緒に来るかい?」
ケンは、カフェオレを口に運びながら、これからの計画を話す相手が出来たことを嬉しく思った。
「ええ、ぜひ一緒に行きたいわ。でも、私、今アルバイトで忙しいし……。でも、もしかすると8月は、バカンスが取れるかもしれないわ。私の働いているブティックのオーナーもバカンスを取るかもしれないっていってたから。」
「もし、できれば、一緒に行こう。」
「あっ、私急がなくっちゃ、メトロに遅れちゃうわ。じゃまたね。」
ミッシェルは、あわててカフェテラスを飛び出していった。


ケンは、明るい朝の日差しの中、シャンゼリゼ通りを一人で歩いていた。パリにしては、珍しく天気のいい日であった。
「ハロー。」後ろから呼びかける声がする。
こんな所で一体誰だろうと思って振り返ってみると、ソウルからパリまで機内でサービスしてくれたスチュワーデスのソーヤンとスチュワードのイェンだった。
「ハーイ、偶然だね。こんな所で会うとは。」

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この2人は、KEの機内でケンに特別親切にしてくれた。特に、年の近いソーヤンは、ケンのことが気に入ったらしくて、ケンがファーストクラスに乗ったことがないことを知ると、スチュワードのイェンケンに頼み込んで、わざわざジャンボジェットのアッパーデッキのファーストクラスへ案内してくれて、特別食を食べさせてくれたし、操縦室も見学させてくれた。そんなことが色々と頭によみがえってきた。
パリに着いてまだ丸二日しか経っていないのに、もう随分長い時間が経ったような気がした。古い友人に見知らぬ土地で久し振りに偶然出会ったような錯覚に、ケンはしばらくとらわれていた。
「もう、ソルボンヌの手続きは済んだの。」
典型的な韓国美人のソーヤンが、やや特徴のある韓国なまりの英語で聞いた。
「ああ、きのう、済ませたよ。」
「飛行機で君と一緒だった美人のアメリカ人娘たちは、一緒じゃないのかい?」
中年の腹に脂肪が付きだしたイェンが今度は訊ねた。
「いや、彼女たちとは、オルリー空港で分かれてそれっきりだよ。ジェニーのおじさんがロールスで迎えに来てて、僕たちを送ってくれるって言ったけど僕はバスの方が気楽だから断ったよ。ケイトは、ジェニーと一緒に行ったみたいだったけど。」

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「へえ、あれ程、親しそうにしてたのに、ジェニーからは何の連絡もないの?」ソーヤンが興味深そうに言った。
「僕らも、もう行かなくっちゃ…」
2人は、他のクルーと待ち合わせがあるらしく、イェンは時計を見ながら同僚のソーヤンを促した。2人は、ケンに韓国語で別れを告げると、先ほどケンが上がって来たばかりのメトロの階段を急いでかけ降りて行った。
ケンは、2人の後ろ姿をしばらく見守っていたが、再びシャンゼリゼの通りを凱旋門とは反対の方向に歩き出した。初めて見るシャンゼリゼ通りは、石畳みを敷き詰めた大通りの両側に、カフェやらブティックが軒を連ねて、想像していたよりも広く、とてつもなく大きく感じられた。
通りは、午前中といっても、もう既に美しく着飾ったパリジェンヌやら観光客でいっぱいだった。特に何の目的もないケンは、ウィンドウをのぞきながら、ぶらぶらと歩き続けた。
そうだ、JALの案内所へ行ってみようと思って、縦断歩道を渡ろうとしたが、信号が変わった。ケンが信号待ちをしていると、後ろの方で誰か日本語で鼻歌を歌っている気配がしたので振り返ったが、日本人は誰も見当たらない。ふと横を見るとケンと同じ年頃のブロンドをポニーテールにまとめたアイビールックの娘が、矢沢永吉の歌を口ずさんでいた。ケンは思わず、
「君、日本語話せるの?」と聞いた。

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「へぇ? あんたも日本語しゃべれるの?」
とその娘は、ビックリしたようにケンを見返した。
「もちろんさ、僕、日本人だもん。」とケンが言うと、
「へえ、日本人には見えないけど日本語ジョーズだから日本人かな? これから友達と、近くのカフェで会うところなの。よかったら、一緒に来ない?」
と、気軽にケンを誘った。
「OK」ケンは、何とはなしに、この娘とは初対面という気がしなかったので、彼女について行くことにした。
2〜3分も歩くと、彼女が友達と待ち合わせているというカフェに着いたが、その娘は、友達に紹介もせず、またケンも、自己紹介もせずに、古い友達であるかのように一緒にテーブルについた。 「マリー、元気? 久し振りネ」 大きなサングラスをかけ、つばの大きな帽子を斜めにかぶった30は超えていると思われる女性は、タバコを右手に持ったまま娘の頬にキスをした。
マリーが、ありふれた名前だなとケンは思いながら2人の会話をしばらく見守っていた。
しばらくして、マリーはケンの存在を思い出したかのように、
「フランソワーズ、この人は……」
彼女は、お互いまだ名前も知らないことにやっと気付いて、ケンの方を見た。

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「ケン」ケンは、タイミングよく自己紹介をしながら
「マリー、君、何にする?」とマリーに注文を聞いてから、ウェイターにコーヒーを2杯注文した。
フランソワーズは、マリーのにわかボーイフレンドに興味があると見えて、ケンに色々と質問し、ケンが答える度に
「へえーっ」
と驚きを漏らした。
「でしょう。この人、日本人には見えないでしょう。でも、日本人だって言うのよ。」
マリーはまだ、ケンが日本人であることにこだわっているようである。
「でも、半分はスペインとドイツの血が入っているんだ」
とケンが付け加えると
「でしょう。やっぱり、どう見ても純粋なオリエンタルじゃないと思ったわ。」
フランソワーズも、その大きなサングラスをはずしながら、美しい緑の瞳を輝かせて納得した。
3人は、そのカフェで軽いランチをしながら、身の上話に花を咲かせた。
「じゃあ、マリー明日10時にリヨン駅でネ。オ・ルボワー、ケン、楽しかったワ。」
と言って、フランソワーズは、二人を残して出ていった。

   −32− 次へ

「あなた、これからどうするの?」
マリーは、シャンゼリゼ通りを行き交う人々を見ながら聞いた。
「いや、別に今回は何にも予定はないけど。君はどうするの?」
「じゃあ、これから私のアパートへ来る?」
「ああいいよ。行こう。」
何のためらいもなく、ケンはマリーに同意した。
 


マリーのアパートは、シャンゼリゼからメトロに乗り、モンパルナスで乗り継いだポルト・ド・クリシーにあった。
メトロの階段を上がりきったところにこぎれいなカフェがあったが、通りをはさんだ筋向かいに、もう一軒さらに大きなカフェがあった。
カフェには、昼下がりの一時をのんびりとおしゃべりを楽しみながらくつろぐ人々の姿がかなり見られた。ケンはマリーに手を取られながら、カフェとは反対側へ通りを渡った。角から2軒目の古ぼけたアパートが、マリーのアパートであった。

前へ −33−   

玄関の古い木製のぶ厚い扉を開けると、中から外とはうって変わって冷んやりした空気が流れ出してきた。
大理石でできた中央が少しくぼんだようになっている少し狭い階段を昇った2階の突き当たりが、彼女の部屋だった。
玄関ドアーとは対照的に各部屋のドアーはスチール製で、そのドアーを開けると中はかなりモダンな造りになっていた。
マリーは、ケンに入口で靴をぬぐように言った。
以前日本に行ってときに日本で生活様式に感銘を受けて、それ以来このやり方で通しているという。
ケンは靴をぬぐと、毛足の短いグレーの絨毯の上をマリーの後に従って、右奥へ進んだ。
そこは窓に面した小さなリビングになっていた。
マリーは、ケンにそこにあった小さな革張りの黒いソファーに座るようにいうと、自分はリビングと続きになっているキッチンに入って、何やらゴソゴソとやり始めた。
彼女は、キッチンの中からケンに飲み物は何がいいか尋ねた。
彼女は、自分用に熱いカフェオレと、ケンには氷の入ったグラスとコーラのボトルを持って出て来た。
マリーは、ケンの正面の木製の子供用のチェアに座ると話し始めた。
「ケン、このアパートどう?」
「小さいけど、居心地よさそうだネ。好きだよ。」

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ケンは思った通りを言った。
「私も気に入ってるの。家賃も安いし……。奥にもう2部屋あるのよ。」
彼女は、こんな都会の真ん中に2LDKのアパートを持っていることを少々誇りに思っているように見えた。
「部屋代いくらなの?」
「1500フラン※。安いでしょう。」(※当時1フランは約20円)
彼女はカフェオレを飲みながら、得意気に言った。
「僕は、あんまりパリの住宅事情は分かんないけど、それで安い方なの?」
ケンはコーラをグラスに注ぎながら、氷でコーラが泡立ってこぼれないようにグラスを少し傾けた。
「そりゃそうよ。この辺じゃどんなアパートだってみんな2,000フランはするわ。私の友達のアパートなんか、この近くなんだけど、ここと同じ位の広さで2,500フランもするのよ。」
「パリも結構、物価は高いんだネ。」
「でも、日本の方がもっと高いと思うわ。私も2年前にTokioに行ったんだけど、あんまり物価が高いんでビックリしたわ。」
「そりゃそうとTokyoは、日本でも、いや世界でも一番物価が、高い都市だと思うよ。でも、僕の生まれたKobeは、Tokyoと違ってそんなに物価も高くないし、住みやすい街だと思うけどナ。」

前へ −35−   

ケンは、自分の生まれた故郷を思い出しながら、少し感傷的な気持ちになった。
「私は、やっぱりパリが一番好きだわ。あなたはパリ好きじゃないの?」
マリーは、ケンをとがめるような口調で聞いた。
「もちろん、好きさ。世界中の人々が、パリにある種の憧れを抱いていると思うよ。僕もそのうちの一人だけどネ。」
「ところで、今、何時?」
マリーは、自分の腕時計は飾りで、実際はもう半年も動いていないんだと言い訳しながらケンに聞いた。 「あと10分で、4時だけど……」
「えっ! 大変だわ。子供を迎えに行かなくっちゃ。」
マリーは、あわてて部屋を飛び出して行った。
 


ケンがパリに着いて、1週間が瞬く間に過ぎ去った。でも、パリはまだ夏に入ったばかりで、人々はバカンスの話で持ちきりだった。
パリの夏は、天候が不順で、朝はほとんど霧の様な細かい雨が降り、セーターを着なければならない程寒い。

   −36− 次へ

雨は本当に雨と呼べるような雨らしい雨ではなく、文字通り霧雨であるため、傘をさしている者は誰もいない。早朝の霧雨に煙るルクサンブル公園を、ケンは好んで散歩したが、木々は雨露に濡れて、一層その緑を増して美しく萌えていた。
公園の中にあるベンチにそんな雨の中、浮浪者が寝ているのに出くわすことがよくあったが、ケンは何か心の中に冷たい物を感じて、さびしい思いがした。
その朝も、朝食の前にいつものようにルクサンブル公園までジョギングをするつもりで部屋のドアーを開けようとしたケンは、足下に白い紙切れが落ちているのに気づいた。昨夜は、遅くまでシャルルとカフェで飲み明かして酔いつぶれて帰って来たので、気がつかなかったのだろうか、その紙切れは多分ドアの間にはさまっていたと思われた。
ジェニーからの伝言であった。
あれから、まだ1週間しか経っていなかった。でもケンには1年近い歳月が流れたようにも感じられた。
ジェニーは、ケンがパリに着いた日、ソウルの空港で会ったアメリカ人の女性ケイトと共にジェニーのおじが迎えによこしたリムジンで、短い別れの言葉を残して立ち去った。

前へ −37−   

ケンは、そのときあえて彼女の住所も電話番号も聞こうとはしなかった。
それは、彼にとって新しい人生が始まろうとするパリで、何事にもとらわれずに、白紙の状態で生きていこうとする彼の決意の表れであるかに見えた。
しかし、同時に彼の心の奥底では、まだ彼自身は気が付かない微妙な変化が起きていた。ジェニーと知り合って24時間足らずの短い時間に、この青年の心の中にはこの無邪気なアメリカ娘に対する淡い恋心が、芽生え始めていたのである。
ケンは、このことに全く気が付いていなかった。いや、むしろそのような事を考えようとはしなかったと言った方が適当かもしれない。彼の20年足らずの人生の中で、本当の恋愛というような経験はまるでなかった。
ドイツ人の母と医師である日本人の父を両親とする比較的裕福な家庭に育った彼は、ハイスクールまでは2歳年下の妹ニコラと共に神戸のインターナショナルスクールに通い、その後、ロサンゼルスのUCLAへ行った。
彼の生まれ育った港町神戸は、明治時代から既に欧米人が住みつくようになり、今では、2万人を超す外国人が一大コミューンを形成していた。

   −38− 次へ

現在では、そのほとんどが日本で生まれた3世あるいは4世であるにもかかわらず、日本の社会とは一線を隔して自分たちの伝統と風習を守った、かたくなな生活を送っていた。
そのために、学校はミッション系のインターナショナルスクールが3校と、それにドイツ学校及びノルウェー学校を合わせると計5校の外国人の子弟のためのインターナショナルスクールがあった。
彼らは、その古い歴史の中で独自の社交と憩いの場として、3つの外人クラブを持つようになっていた。
アメリカ人の神戸クラブ、イギリス人のKRAC、北欧人の塩屋カントリークラブ、この3つの外人クラブがそれぞれの立場において、それぞれの役割をはたして、100年近い神戸の外国人コニュニティーにうまく溶けこみ調和していた。
神戸を初めて訪れる外国人は、この整然と栄えた神戸の外国人社会を見て、一様に感嘆の声を漏らし、また、そのほとんどの人たちが、一度は神戸に住んでみたいと思うに違いない。
神戸は、欧米の外国人にとっては、まだ未知の、しかし、あらゆる意味での可能性を秘めた魅力あふれる街である。
 
ケンは、2歳年下の妹ニコラと共に愛情あふれる両親のもと、このような美しい街で、外国人社会の一員として育った。

前へ −39−   

ハイスクール時代は、あらゆるスポーツに興じ、今では身長も180㎝を超え、父親をもしのぐがっしりとしたスポーツマンに育っていた。
しかし、他の若者にも共通のことだが、肉体的には大人になっても精神面ではまだ完全に自立しているとは言えず、未だに父親、母親のことを「ダディー」、「マミー」と呼ぶ幼い一面をのぞかせていた。また、そのことが両親の喜びでもあった。ガールフレンドは、子供の頃からの幼なじみのケンの家の前に住んでいるドイツ人夫婦の末娘アンドレア一人であり、どこへ行くときも2人は兄妹の様に一緒であった。そんな2人でも子供の頃は犬猿の仲であったが、年を取るに従い2人はお互いしだいに好意を持つようになった。しかし、それはいわゆる男女間の恋愛感情にはまだ程遠い関係であった。
ケンがカレッジを終え、パリへ医学を勉強しに行く決意をアンドレアに初めて打ち明けたとき、彼女は自分のケンと一緒にパリへ留学するのだと言って、両親を困らせた。結局、ケンの温かい説得によりカレッジに入るまでは両親の元にとどまり、その後、パリかハンブルクの大学へ入るということで納得をした。
ケンがパリへ発った日、アンドレアはその美しいブルーの目を

   −40− 次へ

真っ赤に泣き腫らして、大阪空港で、ケンの乗った飛行機が西の空に小さい点となって消えてしまうまでじっと一人で見送っていた。
ケンは、アンドレアと別れた後、父方の祖父母に会うため、福岡へ向かう機内でもう既にパリでの新しい生活を夢見ていた。本当のところ、その瞬間からアンドレアの存在は彼の脳裏からほとんど消え去ってしまった。


ケンは、今、ジェニーからの手紙を手にして、ふっとアンドレアの事を思い出していた。すべてが1週間たらずの出来事なのに、何故かジェニーのことまでが、遠い過去の事のように思われた。
『とりあえず、明日カフェド・パリへ行って見よう』
彼は、まだ朝もやの明けやらぬ霧雨の中を、いつものようにウィンドブレーカーを着込むと、ローザンヌ公園へと走り始めた。
「ジェニー、実は私、ケンのこと一目で好きになったみたい。最初あなたたちにソウルの空港で初めて会ったとき、急にそんな気持ちがあふれてきたのよ。こんなのを一目惚れっていうんでしょうね……」

前へ −41−   

ケイトはパリに着いて以来、ずっとモンパルナスにあるジェニーの家にとどまっていた。それは単にジェニーのパリの家が、数人のお手伝いがいて豪華で住み心地がいいという理由からだけでなく、ジェニーと彼女は最初の出会いのときの印象よりも、実は相性がいいということを2人は同時に発見していた。
「でも……。あなた、そんなことこの一週間一度も口にしたことなかったじゃない。」
ジェニーはケイトの言葉を、幸せの絶調にある花嫁を不意に襲った忌まわしい知らせでも聞くように、まるで信じられないといわんばかりに、自分でも気付かないうちに否定しようとしていた。
「ええそうよ。でも私、この一週間、彼のことずっと考えてたのよ。その結果、彼は多分、私にとって一番のパートナーになれると思うようになったの。もちろん、あなたは、こんな私のこと、頭がおかしいと思うでしょうネ。お互いほとんど何も知らないのに、私が一方的にこんな風に思うなんて……」
ケイトは霧雨もあがり、美しく晴れあがったパリの空をロココ式の窓越しにながめながら、その美しい瞳を輝かせて、小鼻にちょっとシワを寄せながら、おどけたように笑って見せた。

   −42− 次へ

ジェニーは、ケイトの本心を聞いて、今まで想像もしていなかった手強い強敵の出現に、一瞬言葉を失い、何を言ったらいいのか迷っていた。
「で…でも、ケンは、私も含めて全く女の子には興味ないみたいよ。スイスにいるお母さんのことばかり自慢して、まだマザーコンプレックスの子供よ…。それに日本に、幼い頃からのガールフレンドがいる、とも言っていたわ……」
何とかして、ケイトの気持ちをケンからそらそうと、ジェニーは必死だった。
「そんなところが、私、好きなのよ。何ていうか、まだ初々しい感じのそういう所がたまらなく魅力的なのよ。私、これまでアメリカで色々な男性と付き合ってきたけど、誰一人として、私の理想の男性には巡り会わなかったの。でも、彼を初めて見たとき、何か突然、私の心の中にひらめいたのよ。これは運命的な出会いになるって……。私、この人とここで出会うために、きっと神様が長年住みなれたニューヨークを離れさせ、旅に出させたのよ。」
「そんな、神様だなんて………。ケイト、あなた、そんなのナンセンスよ! 私たちが、フクカオから同じ飛行機に乗って、ソウルの空港で時間待ちをしている間にたまたまあなたが現れて

前へ −43−   

偶然出会っただけじゃない。あなたのいうような運命的な出会いだなんて、そんなのばかばかしいワ。第一、彼と出会ったのは、私の方が先なのよ。」
ジェニーは、半ば興奮し、少しいら立ち始めている自分を既に感じながら、頭を後ろへ少しそらして、その良いブロンドの髪を右手で後ろにかき上げながら、じっとケイトの目を見つめた。
「そりゃあ、ケンと会ったのはあなたの方が先だけど、私、飛行機の中であなた達の事ずっと観察していたんだけど、彼はあなたのことなんかずっと無視してたじゃない。彼はむしろ私に対しては、最初からずっと好意を示していたように私は思ったけど……」
ケイトは、ジェニーを威嚇でもするかのように、少し強い口調で言った。
ケイトの最初の言葉で、ジェニーはもうこれ以上ケイトと口論はできないと思った。
ケイトの言ったことは、ジェニーがこの一週間最も恐れていたことでもあったのだ。
彼女は、ケンと初めて福岡の空港で出会ったときから、自分がケンに好意以上のものを感じていることを知っていた。
ケイトとの初めての出会いのときも、女性の直感というか、何か不快な物を感じて、最初はケイトとろくに言葉も交わさなか

   −44− 次へ

ったのに、ケイトの人柄と巧みな話術にしだいに心を開いていった 自分が今では腹立たしくて仕方がなかった。
『やっぱり、あのとき、空港でこの女と別れてしまえばよかったんだワ』
しかし、今ではもう既に遅すぎることを彼女自身理解していた。
最初は全く毒にも薬にもならない存在が、自分の予測もできないような速さで、自分の最も危険な最も害のある、息の根をも止めてしまいそうな存在になろうとは、まだ経験の少ない彼女には、とうてい想像しようにも無理な話ではあった。
「そうね……。あなたの言う通りかもしれないわ。もしかするとケンは、あなたに興味持っているかもしれないわネ……」
ジェニーは、自分たちがケイトと初めて会ったときのケンの態度を脳裏に浮かべながら、彼の言葉を一つ一つを思い出していた。
やっぱりケンは、今、自分の前にいるこの美しいモデルのことが好きなのかもしれないと思った。
 
ジェニーは、小さいときから周りにいつもきれいだ、かわいいと言われて育ち、自分でもそのことを認めていたし、そのために多少、高慢なところがあっても、男はみんな許してくれるものと思っていた。

前へ −45−   

でも、今こうして自分よりも美しく思える、しかも高慢なそぶりを少しも見せないケイトの前に、自分の考えがいかに間違っていたのか思い知らされ、打ちのめされようとしていた。
「私、ケンのドーム(寮)を探して来たのよ。」
ケイトの言葉にジェニーは、また急に現実に引き戻された。
「え? いつ?」
「昨日よ。昨日ソルボンヌへ行って、彼のドームの住所を聞いてきたのよ。」
ケイトはその大きな瞳をいっそう大きく見開き、その美しく整った眉をつり上げて言った。
「それで、どこに住んでるのよ?」
ジェニーは、何故、自分が一週間そのことを思いつかなかったのか、自分自身に腹立たしく思いながら、たたみかけるようにケイトにたずねた。それと同時に今まで、少し弱気になっていた気持ちはすっかりどこかへ消え失せ、今度は反対に持ち前の負けん気が鎌首をもたげて来るのを感じていた。
「シテユニベルシテよ。」
ケイトは、たばこに火をつけながら言った。

   −46− 次へ

「そりゃそうね。ソルボンヌのドームだったら、当然、あそこよネ。そんなの当たり前よネ……」
ジェニーは、こんなのいつもの自分じゃないと思いながら、自分のことを嘲笑するかのように、急に大きな声を出して笑い始めた。
「何が、そんなにおかしいの? 私、昨日ソルボンヌへ行った帰り、ついでに彼のドームまで言って来たのよ。でも留守だったワ。だから、私、彼にメッセージを残してきたの……。あなたの名前でね……。」
ケイトは、上目使いで、ジェニーの反応を見るような素振りをしながら、いつものように小鼻に皺を寄せて、可愛くキュッと笑って見せた。」
 


約束の時間は11時なのに、もう1時間以上も待ったが結局ジェニーは現れなかった。ケンは、勘定をテーブルに置き、コーヒーの残りを一息に飲み干すとカフェを出た。もう、太陽はほとんど真上まで上がり、手をかざしながら見上げると、パリには珍しくぎらぎらと輝いていた。シャンゼリゼ通りを初めて来たときと同じようにぶらぶらと歩きながら、これからどうしようかと考えた。
前へ −47−   

「ハーイ、ケン。」突然声がした方を振り向くと、ケイトが立っていた。相変わらず長い栗色の髪をキラキラと輝かせ、ぴったりとしたジーンズに、洗いざらしの白いシャツを腰の所でくくった姿は、ケンにはまぶしかった。
「ハーイ、ケイト、偶然だね。久し振りだけど元気だった?」
ケンは思いがけないケイトとの再会に心がはずむ思いがした。
「ほんとね。全くの偶然だわ。あなたはどうだったの。もう、学校はスタートしたの?」
ケイトは、本当のところ、2時間も前からケンをずっと待っていたのだったが、全く知らないそぶりをしてみせた。
「うん、先週からソルボンヌへ通い始めたんだけど、まだ、調子が掴めなくってね。ところで、ケイト君は……」
ケンは、ジェニーのことをケイトにたずねようと思ったが、止めることにした。
「えっ、なあに?」ケイトはブルーの瞳を輝かせながら、ケンの方を見つめていた。
「い、いや。何でもないよ。君は今日、シャンゼリゼで誰かと待ち合わせでもあったの?」
「えっ、ええ、ちょっと友達とカフェで会って、今その帰りなのよ。」
ケイトは自分が、実はケンを誘い出した張本人であることを言い出すことは、とてもできなかった。

   −48− 次へ

「ケン、もしよかったら、そこのカフェでお茶でも飲んでかない?」
「ウィ。」
二人はシャンゼリゼ通りにある、ケンが初めてパリに来たときにマリーと一緒に入ったのと同じカフェに入っていった。
そういえばマリーとは、ここ1週間以上も会ってないな。子供のベビーシッターのことで相談があるから会いたいって言ってたけど。
「ケイト、ところで君は今何してるの?」
二人はシャンゼリゼ通りにある、割と大きなカフェのシャンゼリゼ通りに面した、通路に置いてある二人がけの小さなテーブルに腰を落ち着けた。テーブルは、白木作りのこぢんまりしたテーブルで、上から薄いブルーのテーブルクロスがかけられていた。イスは、ありふれた籐製のものだが、なかなか座りごこちが良かった。パリにはこういうタイプのカフェが無数にあり、パリ市民あるいは観光客の憩いの場となっていて、これがまたパリ独特の雰囲気をかもし出していた。
「それがね……。実のところまだ何もしてないのよ。」
ケイトは少し目を細めながら、通りを行き交う人々にちょっと視線を投げかけながら言った。
「じゃあ、今、どこに住んでるの?」

前へ −49−   

ケンは別にケイトのことなど大して興味のなかったが、会話の糸口を見つけるために話を続けた。
「ジェニーのところよ。といっても実際はモンパルナスにある彼女のおじさんの家だけど、お手伝いさんも何人かいるし、なかなか住み心地がいいから、まだ居候しているの」
「ジェニーは元気かい?」
「ええ、変わりないわ、元気よ。」
ケイトは、それ以外のことは語ろうとしなかった。
ケンは、ジェニーのことをもっと詳しくたずねたいという衝動にかられたが、やっぱり止めることにした。
「君は、これからどうするの?」
「私、本当は画家を志しているの。だからアメリカのカレッジでは絵画を専攻してたんだけど、途中で自分の才能に限界を感じて挫折しちゃったのよ。だから、もう一度始めからやり直そうと思って、こうしてパリへやって来たのよ。このことは、まだあなたにも、ジェニーにも、言ってなかったんだけどネ……」
真剣な顔をして、じっとケンの目を見つめながら話すケイトの瞳に、ケンは一瞬催眠術でもかけられたような気持ちで、そのままずっと話を聞いていたいような衝動にかられた。ケンは、ケイトをソウルの空港で初めてあったときのことを思い出していた。そういえば、この人は、何となく神秘的で芸術家のような雰囲気が漂っているとケンは思った。

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「そうか、じゃあ、君は画家の卵という訳か」
ケンは今さらながら、ケイトのギリシャ彫刻を思わせる彫りの深い顔を見つめながら美しいと思った。
ケイトは、自分の生い立ちを少しずつケンに語り始めた。
彼女の父は、テキサスのダラスで石油会社の社長で、アメリカンドリームの例に洩れず、一代で財を成し遂げた人だという。
彼女には兄弟も姉妹もいないため、彼女の父親は、小さい頃から彼女に会社の後を継がせようと思って期待をかけていたが、父親の意に反して彼女は芸術の道へ足を踏み入れることになった。
ハイスクールを卒業して、彼女がニューヨークにある美術学校に行くことを決意し、父親に打ち明けたとき、父親は猛然と反対し、どうしても美術学校へ行くのなら学費は出さないと言った。しかし、結局、ケイトは父親の反対を押し切り、美術学校へ入学し、その後、父親の言った通り、親からの学費の援助は全くなく、アルバイトをしながらカレッジに通った。
17歳まで何不自由なく育った彼女にとって、両親からの金銭的な援助がない生活は、想像していたよりも過酷で惨めなものだった。
それでも、彼女は何とか自立の道を歩み始めた。しかし、展覧会に出した自分の作品がことどとく落選し、自分の才能に限界を感じて、パリに旅立つことにした。

前へ −51−   

パリに来る前に西海岸を経由して、日本にも京都と奈良に数ヶ月滞在して、画の勉強をした。そして、偶然パリへ行く途中、ソウルでケンとジェニーに出会った。
ケンは、ケイトの話を聞いているうちに、次第にケイトに対して全く違った見方をしていた自分に気付き、少し恥ずかしい思いがした。最初、彼女を見たとき、その芸術家風の出で立ちから、ちょっと時代遅れのヒッピーか何かだと思っていたが、今こうして話を聞いてみると、自分にはない何か強い信念を持った女性であることに、今更ながら感銘を覚えると共に、ケイトに対する強い尊敬の念を抱き始めている自分に気付いていた。
 


ケンは、もうすっかりパリの生活にも慣れ、生活にもリズムが出て来た。朝、大学の講義に出て、夕方は、マリーの子供ピエールの幼稚園へ、5時までにピエールを迎えに行かなければならない。
5時を過ぎると幼稚園側は、子供に対する責任は一切取らないため、子供は警察に引き渡されるのである。だからケンは毎日、気が気ではなかった。
特に、今日は講義が遅れたせいもあって、いつもより少し遅れている。
   −52− 次へ

いつも4時30分までには、マリーのアパートへ行き、ストローラーを取って来て、ピエールを迎えに行くのだが、今日は、そんな悠長な時間はなさそうだ。メトロの階段を駆け上がると、ケンはピエールの幼稚園まで一目散に走った。
ケンが、息せき切ってようやく幼稚園の玄関まで辿り着いた時、まだケンと同じ年位の若い保母に付き添われて、ピエールは不安げにケンを待っていた。
ピエールはケンの顔を見るなり、ケンに飛びついてきて、嬉しさを体全体で表した。 ケンも、この時ばかりは安堵感と喜びとが胸に込み上げてきて、ピエールを胸にしっかりと抱いたまま、しばらくじっとしていた。
やがて、若い保母に礼を言うとケンは、ピエールの手を取って、若い父親のような気分でパリの夕暮れの街を、いつものように家路を急いだ。
マリーが銀行の仕事を終えて帰る7時30分までに、マリーが用意してくれた夕食を冷蔵庫の中から出して、ピエールに食べさせて寝かしつけなくてはならない。 それが、ケンとマリーとのベビーシッター契約である。
ケンは、これまで毎日きっちりと約束を遂行し、マリーの信頼を得ていた。今日のようなことで、その信頼を失いたくはなかった。
「サバパタテ。サバパタテ……」

前へ −53−   

3歳になったばかりのピエールは、ケンに手を取られて帰る道すがら、ずっとケンに向かって同じ言葉を繰り返していた。
しかし、ケンにはその言葉の意味が、かなり長い間分からなかった。数週間経って、メトロの中で、その言葉をふと口にして初めて気がついた。
「お前の頭はクルクルパー。」
ケンは苦笑した。
「さあ、ピエール。食べるんだ。食べないとケンは怒るぞ!」
なだめすかして、マリーが用意した夕食をピエールの口へ放り込もうと努力しても、今日は、この3歳の子は、頑として食べようとはしない。 果たして、どうしたものかと考えたが、ピエールは余り腹が減っていないらしい。
それに比べ、ケンは、朝のカフェオレとパン以外に何も口にしていなかった。ケンは、ピエールの顔とその前に置かれた彼の夕食とを見比べた後、
「ピエール。君が食べないんだったら、ぼくが食べちまうぞ!」
と言って、総て平らげてしまった。
マリーは、いつも通り7時30分きっかりにドアのベルを鳴らした。
「ハーイケン、ピエールどうだった? ちゃんと夕食、食べてくれた?」

   −54− 次へ

マリーは、ケンのほっぺたに挨拶のキスをしながら、いつものように聞いた。
「ウィ。ビアンシュール。」
ケンは、少しためらいながらも挨拶のキスを返した。
「オ・ルポワール。また、あした。」
マリーと交代するかのように、もう彼は既にドアの外に出ていた。
「どう、今日はもう少しゆっくりして、コーヒーでも飲んでかない?」
マリーの誘いに乗りたい行動に駆られたが、何だか今日は気が進まなかった。
「メルシー。でも、今日は宿題がたくさんあるから今度にするよ。」
ケンは、マリーの声を後ろにまだ聞きながら、駆け足で走り去った。
パリの夏の夜は、まだ明るかった。シテユニベルシテまでの帰りのメトロの中で、ケンはマリーのことを考えた。彼女が自分に対して好意を抱いていることは最初から感じていた。
また、ケンも自分と同年代の彼女は、自分よりもずっと大人に見えたし、まして美貌と教養あるこの女性に対して、興味を感じないはずがなかった。
でも、何かが彼の純真な気持ちにブレーキをかけていた。

前へ −55−   

「マリーのことを考えるのは、もう止めにしよう。ジェニーは今頃どうしているのかな?」
モンパルナスの長いエスカレーターを歩きながらケンは、ふと、ジェニーのこと思い出した。
彼女とはパリに来て以来、もう随分長いこと会っていない。
もう少し詳しいことを聞いておけばよかった。そう言えば、ケイトは帰り際に電話番号と住所をくれたが、あれはどこに置いただろう。帰ったら、早速、調べなければ……。
何の口実もないのに電話をする気にもなれないが、何とかして、一度ジェニーに会いたいと思った。
「ラ・スタシォン、リェージュ、エ・フェルメ、オ・ピュブリク」
メトロの中に短いアナウンスが、いつものように響いていた。


枕元の時計はまだ6時前を示していた。夢かと思ったが、さっきからしつこく立て続けにドアをノックする音は、やはり現実のものだった。まだ、ねぼけまなこであくびを数回繰り返しながらドアを開けると、シャルルが真っ青な顔で、しかも目を真っ赤に腫らして茫然と立ち尽くしていた。
「一体どうしたんだ! まあ中へ入れよ。」

   −56− 次へ

ケンは急いでドアを閉めると、自分はベッドの縁に腰かけ、シャルルには、側にあったスチール製のイスを勧めて座らせた。
外は、いつものパリらしく霧雨が降っていて、シャルルは全身びっしょり濡れて寒そうだった。ケンは、とりあえず乾いたバスタオルとトレーナーをシャルルに渡すと着がえるように言った。
シャルルが体を乾かしている間、ケンは眠い目を何度もこすりながら、部屋に備えつけてある小さい台所へ行き、ポットの中のコーヒーを温め直した。
アルミのカップに一杯のコーヒーを注ぐと、さりげなくシャルルに手渡した。その一杯のコーヒーは、彼を心身共に温めてくれたようだった。
シャルルは、そのコーヒーを飲みながら、少しずつゆっくりと言葉を選んで話し始めた。
「ケン、君は僕のガールフレンド、ミッシェルを覚えているだろう。君が最初にパリに来た日に初めて紹介した女の娘だ。」
「もちろん、覚えてるさ。あれからだって、何度か会ってるじゃないか。」
「それならいいんだが。実は、僕がこうしてここにいるのは、全て彼女に関係があるんだ……」
「で、彼女がどうしたっていうんだい?」

前へ −57−   

ケンは、いつもの陽気なシャルルとは打って変わったこの男に、一体何が起こったのか、早く知りたかった。
「僕たちは、君も知ってるように、半年前から同じドームに同居しているんだ。こないだ、君が僕を訪ねて来てくれた部屋、覚えているだろう?」
「ああ。」
「僕らは、1年ほど前から付き合い出して、今ではお互いに愛しあっているんだ。」
シャルルは、アルミのカップに残ったコーヒーをもったいなさそうにぐいと飲み干すと、話を続けた。
「実はね。きのう、ミッシェルの両親が田舎からパリへ出てくるというので、僕は彼女と2人でシャルル・ド・ゴールまで、友達の車を借りて、彼らを迎えに行ったんだ……」
シャルルはここで、ぐっと、言葉を詰まらせ、再びその大きなグレーの瞳に涙がいっぱいにあふれて来た。ケンは、彼の様子からして何か不幸な出来事が起こったに違いないと思ったが、まだそれから、何であるのか理解することはできなかった。ケンはじっと待った。
やがて、シャルルは思い起こしたかのように、再び話を続けた。
「ケン、こんな話を君にするのは適当じゃないかもしれない。だって僕らは知り合って、そんなに間がないし……」

   −58− 次へ

「何を言ってるんだ! 僕が初めてパリに着いた日に一番最初に親切にしてくれたのは、君じゃないか! 僕は、君のことを本当の友人だと思ってるし、尊敬だってしてるんだ。」
ケンは、嘘、偽りでなく、本当の自分の気持ちを素直に言った。
「そうか。実は君のことを僕もそう思ってるんだ……。だから、今日もこうして君のところへ一番にやって来たんだ。」
シャルルは、ケンの本当の気持ちを知って安心したようだった。
「さあ、思いきって言ってみろよ。少しは楽になるかもしれないぞ。」
ケンは、シャルルを促した。
「空港まで行ったことは、さっき言ったな。それが僕とミッシェルはロビーで待ってたんだが、グレーの髪をしたカップルが突然現れ、ミッシェルを抱いたり、キスしたりするんだ。全く僕の存在なんか無視したように……。それが彼女の両親だったんだ。」
「それで……」
「しばらくたってから、父親がミッシェルにたずねたんだ。『ミッシェル、ところで、この方はどなただね?』。ミッシェルは、突然のことだったんで少し慌てていて僕のことを紹介するタイミングを無くしていたんだ。

前へ −59−   

そこで、彼女は僕の方を振り返ってウィンクして見せて、僕を両親に紹介した。『パパ、ママ、こちらは私のボーイフレンド、シャルル・マルタンよ。』」
シャルルは更に続けた。一瞬、時間が止まったようだった。彼女の両親はシャルルとミッシェルを見比べると、しばらくはお互いに顔を見合わせるだけで、何にも言葉が出て来ない様子であった。
最初に口火を切ったのは気の強そうな、母親の方であった。今までの親と娘の久し振りの再会という暖かな雰囲気は消え失せ、ミッシェルの両親は、まるで裁判所で罪人を裁く判事のような硬い表情となっていた。
「ところで、マルタンさん。あなたご出身はどちらですの?」
ミッシェルの母親は、ちらりとシャルルを一瞥すると、すぐに視線をそらした。
「僕の父はフランスですが、母はハイチです。」
シャルルは出来るだけ、初めて会う自分の恋人の両親に好印象を与えようと、丁寧に答えた。
それに対して、両親はまたもや顔を見合わせて、もっての外だといわんばかりに、眉を寄せた。
「シャルル君、失礼ですが、ハイチってどこにあるのかね?」
今度は父親がたずねた。
「カリブ海にある小さな島国です。」

   −60− 次へ

シャルルは、尚も丁重に言葉を選んでしゃべった。
「で、ご両親は現在、何をされているんだね?」
父親は、更に検事か裁判官のような口調で続けた。
「父は弁護士で、今、アメリカに住んでいますが、母はもう居ません。」
シャルルは、このようなことを初めて会ったばかりの人に対して聞くのは失礼ではないかと、いささか腹が立って来た。ちょうど、その時、ミッシェルが助け船を出した。
「パパ、ママ、こんな所で突然、そんなに色んなこと質問するなんて、シャルルに失礼よ!」
「ああそうだったな、ごめんごめん。じゃあ、シャルル君、私たちはこれで失礼するよ。今日は会えて嬉しかったよ。ミッシェル、ちょっとこっちへ来てくれないか?」
父親は、ミッシェルに手招きをして、母親と3人でロビーの片隅でしばらく言い争っていたが、やがてミッシェルがやって来て、今日は両親の機嫌が良くないから、先に帰ってくれという。自分は、両親をホテルまで送り届けてから、後で電話をするという。
シャルルはミッシェルの言う通り、ミッシェルとその両親に別れを告げて、彼女の両親のために借りて来た中古のフォルクスワーゲンを運転してドームへ帰った。
シャルルは、ミッシェルからの電話を待っていたが、11時過ぎ

前へ −61−   

になってようやく彼女から電話があり、両親からシャルルの事でショックを受けているという。
「シャルルが黒人である。」
とうことだけで。ミッシェルは最初そのことを言いづらそうだったが、シャルルを勇気づけるためと、自分に言い聞かせるかのように最後に言った。
「シャルル。あなたの事、愛してるわ。今晩、一晩かけて、きっと両親を説得するから心配しないで待っててネ。」
電話は切れた。ツゥーという継続した発信音がしばらく続いていたが、待ち切れないかのように、ツゥー、ツゥーという苛立たしい断続音に変わった。シャルルはやっと受話器を置いた。
今まで黒人ということで、何度か嫌な目には遭ってきたが、その中でも今回は最も手ひどい痛みであった。
シャルルは、いっそこのまま部屋の窓から身を投げ出して、自殺をしようかとも思った。
しかし、それは彼には出来なかった。
カルチェラタンの街へあてもなく、ぶらぶらと出た彼は、カフェで思いっ切り酒を飲んだ。しかし、いくら飲んでも酔うことはできなかった。

   −62− 次へ

やがて、カフェは看板となり、シャルルはセーヌの河畔を彷徨った挙げ句、いつの間にかケンの部屋の前に辿り着いていた。
ケンは、シャルルの話を聞いている内に、その話がすっかり自分の事のような錯覚に囚われてしまって、しばらく何も言い出すことが出来なかった。やがて、勇気を振り絞って言った。
「シャルル、これで君の置かれている状況がよく分かったよ。でもね、君はミッシェルを信じなくっちゃ…。彼女は君のことを誰よりも愛していると僕は信じている。」
ケンの言葉は、今まで人種偏見に打ちひしがれていたシャルルの心に、かすかな明るい希望の灯を点した。
「ありがとうケン。君の言うように、僕はミッシェルを信じるよ。」
シャルルの今までの嫌悪な顔は、今では柔和な普段の彼の顔に戻って、その瞳には今までと同じような不屈の闘志と勇気が感じられた。

10

今日は、ピエールを子守した後、ローザンヌへ行く日だ。ローザンヌと言えばケンの両親が住んでいる街だが、別に両親に会いに行くのではない。

前へ −63−   

ケンの両親は、彼がアメリカのカレッジを中退して、留学するのを最初から反対していた。
だから今回、ケンがソルボンヌへ留学していることも知ってはいるが、まだ認めようとはせず、勿論、学費などは一切面倒を見てくれない。
だから、当然のことながら、ケンは慢性的な財政難に陥っていた。カレッジの時にアルバイトで貯めた貯金、マリーからもらう少額のベビーシッター料と最近シャルルが紹介してくれたカフェの皿洗い兼ウェイターのアルバイト料が、唯一の収入源だった。
しかし、実は彼にはもう一つのアルバイトがあった。ミネラルウォーターの販売である。とはいっても、勿論、パリのミネラルウォーターではなく、それこそスイスアルプスの麓から湧き出る天然のミネラルウォーターである。
このミネラルウォーターをドーミトリーの学生達に売るのである。
そのために、彼は毎週金曜の夜8時になると、大きなリュックにミネラルウォーターの空のボトルを一杯に詰め込み、リヨン駅から夜行列車(TEE)に乗り込む。勿論、無賃乗車である。
パリからローザンヌまでは約10時間、夜8時にパリを出ると朝6時には美しいレマン湖に面した坂の街ローザンヌへ着く。

   −64− 次へ

車掌の改札時間までは、通路で旅人を装っているが、改札が終われば、特に一等のコンパートメントは絶対に安全である。滅多に一等を利用する客などいないからである。
だから後は朝までグッスリと眠ることができる。
こうして、充分な睡眠を取った後、ローザンヌ駅構内に備えつけられている水道からリュック一杯のボトルに水を汲む。これがケンのささやかなアルバイトであった。
一仕事終えるとケンは、いつものように重いリュックを背負い、駅の外へ出て、朝食を取るために、駅前のマクドナルドへ向かい、毎週決まってダブルチーズバーガーを注文する。
ここで、アルバイトをしているスイス人の娘リサと知り合って、もう数ヶ月になる。リサは、ケンが初めて店へ入って来たときからケンのことが好きだった。
17歳になったばかりの彼女は、半年前から学校の合間にこの店でアルバイトを始めた。ブロンドの髪の彼女は、レマン湖よりも美しいエメラルドグリーンの瞳をきらきら輝かせ、店でも一番の美しい娘だった。リサは、ケンが水のいっぱい詰まったリュックを大事そうに背負って初めて店に現れた時、何て素敵な人だろうと胸が時めくのを感じた。ケンは店に入ると真っ直ぐに、リサのカウンターへ行き、ダブルチーズバーガーを注文した。
「他に何か飲み物は、要りませんか?」

前へ −65−   

リサはケンを見上げ、微笑みながらたずねた。
「ノーサンキュー。僕にはたっぷりのミネラルウォーターがあるから……」
ケンは、自分の背負っている大きなリュックを親指で指しながら言った。
「え? その中には、ミネラルウォーターが入ってるの?」
リサは驚いたように目を丸くしながら訊ねた。
「ああ、全部ミネラルウォーターなんだ」ケンはあっさりと答えた。
リサは、ケンとのこの真面目なやり取りが、急に可笑しくなり吹き出してしまった。ケンもリサにつられて笑い出した。ケンは、この日以来、何かリサに惹かれるものを感じ、ローザンヌへ来る度にこの店へ寄り、束の間の会話をするのが楽しみとなった。
リサもケンが現れる土曜日の朝は、いつも胸が弾んで上機嫌だった。
ケンは、食事が終わるとリュックを店へ預けて、駅の前の急な坂を上り、父の勤めるボードワ大学へと向かった。
パリへ来て以来、まだ一度も両親には会っていない。母からは時々手紙が来るが、父は忙しいのか全く連絡をして来ない。
ケンは、父に会おうと、いつも大学の構内までは入ってくるのだが、ただぶらりと散歩をするだけで帰ってしまう。

   −66− 次へ

両親の反対を押し切ってパリへ来ている以上、両親に会う勇気が湧いて来なかった。だが、それでも良かった。大学のキャンパスから眺めるレマン湖は美しかった。対岸にはジュネーブの街が見え、ケンはここからの眺望が一番好きだった。ここへ来る度に、幼い頃、両親と共に暮らした神戸の六甲の家からの眺めを思い出した。
いつまでも、ここに、こうして座って、レマン湖を眺めていたい衝動に駆られた。父も毎日、こうして、この景色を眺めて六甲での生活を思い起こすことがあるのだろうか。六甲での生活は楽しかった。両親と2歳年下のニコラの4人家族だったが、家族は、いつも何をするのも一緒だった。
それに母の両親や兄夫婦の家族が、すぐ近くに住んでいて、いつも賑やかだった。マイヤー家の人々とも家族同様の付き合いで、その末娘のアンドレアとは兄妹のように育った。そんな楽しい日々も、いまでは遠い昔のことのように思えてならない。今では祖父母も亡くなり、伯父の家族はアメリカに移り住んで、六甲には誰もいない。 妹もアメリカのカレッジに通っていて、家族が顔を合わせるのはクリスマスの時期ぐらいだろうか。しかし、両親がローザンヌに移り住み、家族が散り散りとなった今も、神戸でのあの頃の生活は戻って来ないだろう。
ケンは、思い直して立ち上がり、ジーンズの埃を払うと大事なリュックを預けてあるリサの店へ向かって、長い坂を上って来

前へ −67−   

た時よりは幾分重い足取りで、下りて行った。
途中、ローレックスの店を何軒か通り過ぎたが、父が愛用しているダイバーズウォッチと同じ時計が、陳列棚に飾られていた。
将来、お金が貯まったら、きっと買おうと思った。マクドナルドの店先まで来ると 「ケン、早くしないと間に合わないわよ。あと5分よ。発車まで……」
リサが心配して重いリュックを表に出して、ケンを待ってくれていた。 「あっ!いけネェ、この列車に遅れたらカフェのバイトに間に合わないんだ。メルシー、リサ。オ・ルボワール。」
ケンはリサの頬に軽くキスをすると、リュックを背負って、急いで通りを渡り、駅の構内へと消えて行った。
「ケンったら、いつもこうなんだから……。でも来週も来てくれればいいワ。」
リサは、あわてて立ち去ったケンの後ろ姿が、完全に見えなくなるまでじっと見送った。
「サバ、ケン!」

11

サンミッシェルでメトロを降りると、そこには、偶然にも1週間振りに見るシャルルの姿があった。

   −68− 次へ

彼は、この間、ケンのドームに現れた時とは打って変わって、いつものように愛嬌があって元気そうだった。
「ハーイ、チャールズ。久し振りだな。元気だったかい?」
ケンはシャルルの手を取って、しっかりとその両手を握りしめた。
「ケン。君が勇気を与えてくれたお陰で、その後ミッシェルとはうまくいってるんだ。ありがとう、総て君の言った通りだったよ。」
シャルルは、ケンの目を正面から見つめて真剣な眼差しで言った。
「シャルル、これから、君はどうするんだ?」
「大学のカフェテリアに食事に行こうと思ってるんだ。どうだ、一緒に来ないか。」
シャルルは、メトロの階段を上りながらケンにたずねた。
「そうだな。でも今日は、夕食はスキップするよ。」
「どうしてだ?」
シャルルが、怪訝そうに言った。
「月末で余り金が残ってないから……」
ケンは、空腹のためにシャルルの誘いについ乗りそうになるのをようやく抑えた。
「何だ、そんなことか。心配するな、俺に任せなよ。あそこには、俺の友達が働いているんだ。」

前へ −69−   

シャルルは、ポンとケンの肩を叩くと、カフェテリアの方へ向かってどんどん歩き出した。ケンは、仕方なく彼の後を追った。
カフェテリアの前には、まだ5時前だというのに、6時の会館を待つ学生達の長い行列ができていた。
シャルルは、その中に、アフリカ系らしい4〜5人の黒人グループを見つけると要領よく列の中に潜り込んだ。
シャルルは、ケンが躊躇しているのを見て、来るように手招きした。
この黒人青年達は、アフリカ系らしく、シャルルとは違って、肌の色が真っ黒で、皆、背が高くて、ほとんどケンと同じか、ケンよりも高かった。
彼らは学生ではなく、仕事を探すためにパリへ来ていて、偶然、シャルルと知り合ったのだという。
皆、フランスの旧植民地出身らしく、フランス語は達者だった。彼らは、パリへ来て1年以上になるというのに、まだ、職が見つからずに、毎日の食にも事欠いて、ふらふらしていた。
ここにも、フランスにおける人種差別の片鱗を窺うことができた。
シャルルは、そんな彼らを時々、こうして、このカフェテリアへ連れて来ては、彼らに食事を振る舞っていた。
「みんな、ドアが開いたぞ。さあ、行こう。」

   −70− 次へ

シャルルは、皆を促して、カフェテリアの階段を降りて行った。
普段は、ここで、身分証明(学生証)とチケットのチェックがあるのだが、今日はシャルルのお陰でフリーパスだった。
ケンは、トレイを取ると、シャルルの後ろに従った。
無愛想な調理係の中年の男女が、次から次へと料理の入ったプレートを、黙って手渡すのを、一つ一つ「メルシー。」と言いながら受け取った。
ケンは、一週間に1回から2回来るこのカフェテリアが好きだった。
特に美味しいからというのではなく、何と言っても料理の数が多いし、ボリュームたっぷりでフランスパンは取り放題である。だから、ここへ来ると2〜3日分お腹を満たし、ポケットに詰め込めるだけのパンを持ち帰るのである。
周囲を見渡してみると、そんな学生は、ケンばかりではなかった。
シャルルは、ケンとは対照的で父からの送金もあり、金銭面での苦労はなく、いつも貧乏そうにしているケンのそんな姿を見て、ただ、微笑むだけだった。
あくる日、ケンがベビーシッターの仕事から帰ったばかりで、パンとコーヒーで夕食を取ろうとしている所へ、ドアをノックする者がいた。

前へ −71−   

ペンキの剥がれかけたぶ厚い木製のドアを開けると、そこには、昨日、知りあったアフリカ黒人青年のサンボが立っていた。
背の高さはケンよりも20センチ位高く、悠に2メートルは越えていると思われたが、極端に痩せていて、足が長く、妙にアンバランスな感じがした。
シャルルと昨日の仲間が集まっているので、もし良かったら夕食に来ないか、との誘いであった。
ケンは、喜んでその誘いに乗った。ケンのドームから10分程歩いたキャンパスの中に、目的のドームはあった。
シャルルが友達の学生の名義で、彼ら4人の黒人青年達のために、部屋を借りてやっていた。ケンのドームと同じようなゴシック様式の10階建て建物で、中へ入ると、古い湿気たような臭いがした。
真ん中が窪んだ木製の階段を上り詰めた10階に、彼らの部屋はあった。
サンボがドアをノックすると、シャルルがドアを開けて、二人を中へ招き入れた。
「ケン!サバビヤン?」
シャルルは、幾分ワインが入っているせいか上機嫌だった。

   −72− 次へ

ケンもワインを勧められ、部屋の隅に置いてある古ぼけたソファーに座ると、喉が渇いていたことも手伝って、一気に飲み干した。
空きっ腹の胃袋に、アルコールがキューンと染み渡って行くのが分かった。心地いい酔いが、すぐに全身を包んだ。
「さあ、皆んな出来たぞ!」
奥から大きめの鍋を抱えたギニアが、さも得意気に出て来た。部屋の真ん中に置かれた木製のテーブルにその鍋を置くと、彼は「マンジェ!」と皆に向かって両手を広げながら言った。
鍋の中身は、米、各種の野菜とチキンが主であり、これに味噌か醤油でも加えれば日本の雑炊といった料理だった。
みんな誰もが、腹を空かせているはずなのに、きちんと並んで、各々のプレートに適量ずつの料理を取ると、思い思いの場所に座って、メインディッシュにフランスパンとワインという質素で慎ましやかな晩餐を心行くまで堪能した。
食事が終わると誰からともなく、間近に迫っている大統領選挙の話題が出て、ジスカールデスタン派とミッテラン派に分かれて、激しい議論となった。お互い、遠く祖国を離れた者同志が異郷の地パリで、大統領選、あるいは広く政治の話題に話を咲かせている。
彼らは、祖国で大学教育を受けた訳でもなく、ただパリに、生活のために仕事を探しに来ているだけなのに、話はケンの想像

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を超えて、次から次へと高尚な話題へと移っていった。
「ビバ!フランス!」
誰かが叫んだ。

12

「ケン、待った?」
マリーは息せき切って、シャンゼリゼ通りにあるカフェ・ド・パリへ、飛び込んで来た。
今日は、日頃からのケンの熱心な仕事ぶりに対する感謝の気持ちを表すために、マリーがケンを食事に招待したのである。
「いや、僕もさっき来たところなんだ。」
ケンは、今日はマリーが食事に誘ってくれるというので、実は30分も前から来ていた。
「今日は、私の好きな行きつけの店があるの。凱旋門の近くの小さい店だけど、美味しいのよ。さあ、行きましょ。」
マリーはケンの腕を取って、さも恋人同士みたいに、歩き始めた。
最初は、ケンも何だか恥ずかしかったが、どうせ今日一日だけだと思って、マリーに腕を任せたままにした。
「ピエールは、どうしたの?」
心配気にケンがたずねた。

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「寝かしつけて来たから心配ないわ。」
と、マリーは平気で答えた。
息子のピエールの事よりも、今晩はケンとの初めての食事で頭がいっぱいだった。
「でも、大丈夫かな? もし、起きたらどうするの?」
ケンは、尚も不安げだった。
「大丈夫よ、小児用のバルビツレートを飲ませてあるから……」
マリーは、まるで他人の事のように何気なく答えた。
「でも、バルビツレートって、そんな薬を使って大丈夫なの?」
ケンは、益々、不安になって来た。
「平気よ。お医者さんでもらった薬だし、時々、使ってるから。」
ケンは、マリーにもう少し意見をしようかと思ったが、彼女には何を言っても無駄だと思って諦めた。
二人は、凱旋門のそばの小さなフランス料理店で、マリーの言うように飛びっきり美味しい料理と、少しドライのワインを楽しんだ。
今では、ケンも、もうすっかりピエールのことは忘れていて、マリーとのこの楽しい食事が恋人との甘いデートのような気がした。でも、頭のどこかに何か違うという思いが、常に付き纏っているのも本当だった。

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それは、やはりジェニーの事が原因なのかもしれない。
『こうして、美しいパリジェンヌを目の前にして、充分楽しい一時を過ごしているのに、何か満たされないのは、何故だろう? もし、マリーの席に、ジェニーが座っているとしたら……。もう、考えるのはよそう……』
ケンは、ワインの酔いも手伝って、こんなことばかり考えるのだろうと思った。
「ケン、あなた、恋人はいないの?」
突然、テーブルの向かいに座っているマリーが、ケンを現実に呼び戻した。
「え? 何て言ったの?」
「あなたに、恋人かガールフレンドはいないのかって、聞いたのよ。」
マリーは、ワイングラスを片手に持ちながら、ケンの目をじっと見つめたまま、目を反らそうとはしない。
「ノン。まだ、いないよ。」
ケンは、正直に答えた。
「でも、好きな人はいるでしょう?」
「いや、別に……」
ケンは、やっぱりジェニーのことを考えていた。
「でも……、君かな……」
ケンは、しばらく間を置いて、冗談のつもりで言った。

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マリーは、右手の人差し指をワインに浸すと、ケンの顔をめがけて、その滴を飛ばした。
そして、そのワインをゆっくりと飲み干し、ナプキンで唇を拭いてから、ちょっと躊躇しながら言った。
「私……、あなたのこと好きよ。」
マリーは、尚も、ケンの目をじっと見つめたままだった。蝋燭の炎が、その大きな美しいブルーの瞳に揺らめいていた。

13

ケンとマリーは、メトロを乗り継いで、マリーのアパートのあるポルト・ド・クリシーまで帰って来た。
2人がメトロの階段を上って来た所へ、突然、男と女のカップルが現れた。
「マリー、どこへ行ってたんだ?」
男は、日本語で咎めるようにマリーに向かって言った。暗かったので最初は分からなかったが、日本人らしい。体つきのがっしりした中背のその男性は、20代後半の日本人と思われた。
「マリー、大変よ! あなたのアパートに火事だといって消防車が来て……」

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17〜8に見えるその娘は、いかにもパリジェンヌらしいアクセントでまくしたてたが、慌てていて一向に要領を得ない。
「待って! 2人ともどうしたのよ? 何があったのよ? ジュリー、もっと落ち着いて詳しく話してちょうだい。」
マリーは、やきもきしながらも、栗色の髪を長く肩まで垂らした、ケンと同じ位の背丈のある17歳になったばかりの娘にもう一度たずねた。
「あなたの部屋が火事だって、誰かが通報したんで、消防車が来て、窓ガラスを割って、放水して行ったのよ。」
ジュリーは、今度は一語一語ゆっくりと少し落ち着いて話した。
「えっ、何ですって! ピエールは?」
マリーは、一瞬、頭を鈍器か何かで殴られたようなショックを覚えた。
「マリー、そんなに心配しなくても大丈夫だ。ピエールは警察でちゃんと預かってくれているから……」
その中年の男はマリーの肩を抱きながら、最初に言ったときとは、打って変わったような口調で優しく、
「でも、ヒデ、本当にピエール、大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫だ。俺がさっき、ジュリーと警察まで行って確かめて来たんだ。でも、子供は母親にしか渡せないと言われたんで、こうして、君をここで、待っていたんだ。」

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ヒデというその日本人は、今夜の経緯を少しずつ詳しく話し出した。
たまたま、彼とジュリーが9時頃、マリーのアパートを訪ねたら、消防車が来ていてマリーの部屋へめがけて、放水を始めたばかりだったので、慌てて、その隊長の所へ行き、中には子供がいるかもしれないから、放水を中止するように頼み、2階の窓から梯子を使って、まだ眠っていたピエールを助け出した。
幸い部屋の中は、水浸しになったが、ピエールは濡れずに済み、その後、ヒデから事情を聞いた消防隊員が、子供を警察へ連れて行った。
「一体、誰が火事だなんて通報したのよ?」
ようやく、事情が飲み込めて来たマリーが、今度はたずねた。
「向かいのアパートの住人だそうだ。」
「あっ、やっぱりあいつね、きっと、あの女だわ!」
マリーは、それが誰だか、見当がついたらしく、憎悪と憤りで顔を真っ赤にした。
マリーが問題にしている女性とは、マリーの向かいのアパートに住む30歳位の未婚の女性、ドミニクのことで、彼女にもやはりピエールと同じ年齢の息子がいた。
「ドミニクのことを言っているのかい?」
ヒデが聞いた。

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「そうよ。きっとそうよ! あの女以外にこんな馬鹿なことするはずないじゃない!」
「今度こそ、あの女、殺してやるわ!」
「マリー! バカなこと言うんじゃない。まだ、彼女がやったとは決まってないんだぞ。それよりも、早くピエールを迎えに行くんだよ。」
「でも、ヒデ……、そんなこと言ったって……」
「このことは、俺がきっちり解決するから、とりあえずピエールを迎えに行って来い!」
ヒデは、日本の男らしく強い口調できっぱりと言った。
マリーは、しばらくためらった後、
「ええ、分かったわ。じゃ、私、ピエールを迎えに行って来るわ。」
と幾分落ち着きを取り戻して、しおらしく言った。
「俺も一緒に行こうか?」
「いいわ。私一人で大丈夫よ。あっ! それよりも、紹介するのを忘れてたけど、この人、ケン。ピエールのベビーシッターよ。私が、戻って来るまで3人でそこのカフェで待っててね……。すぐ戻るから!」
マリーは3人を残して、足早に去って行った。
「ケン……君か……。よろしく、山本英男だ。」
山本は、大きな右手をケンに出しながら握手を求めて来た。

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「ケン、ケン・ヨシダです。よろしく。」
ケンは、その右手をぎゅっと力強く握り替えした。
ケンの背丈は、山本より10センチほど高かったが、山本の方が体つきがもっとがっしりしていて、ケンは何だか、威圧されそうな気がした。
「私、ジュリーよ。」
マリーの友達のジュリーは、まだ17歳になったばかりだが、体つきはもう大人びて見えた。
ジュリーは、ケンと目を合わせると、可愛く微笑んで見せた。そこには、まだ少女のあどけなさが残っていた。
「ここで立ち話も何だから、とりあえず、そこのエションジュ・リーブルでゆっくり話をしよう。」
山本は、二人を角のカフェへ誘った。山本は、ジュリーに先に席を勧めてから次にケンにも座るように行った。
「ケン君……」山本が行った。
「ケンでいいですよ。」
「じゃあ、ケン、君は国籍は日本なのかい? 名字が、ヨシダっていってたから……」 山本はケンの顔をまじまじと見ながら、不思議そうにたずねた。
「ええ、半分はそうです。父が日本人で、母がドイツ人なんです。今はまだ国籍が日本とドイツの両方あるんですよ。」
ケンは、こういう質問をされるときが、一番嫌いだった。

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いつも同じような質問をどこへ行ったってされるのに辟易していた。
「そうか、そうだったのか。いやね、君の日本語があまりに上手だったので、きっとハーフか何かだとは思っていたんだがね。身元調べは、これ位にしておこう。」
山本は、ケンのそんな心理状態を察したのか、話題をすぐに変えた。
「ところで、ジュリーもケンも、何にする?」
山本がたずねた。
「私、コーヒー。」
ジュリーが言った。
「僕も、コーヒーにします。」
ケンが答えると、山本は、ウェイターにコーヒーを3つ注文した。
「ところで、ケン、いつもピエールの面倒を見てくれてありがとう。マリーから君の話はよく聞かされていたよ……」
「山本さん、じゃあ、あなたがピエールのお父さんなんですか?」
ケンは、山本の顔をしげしげと見つめながらたずねた。
「いやぁ、違うよ。僕じゃない。」

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山本は、右手を大きく振りながら否定した。
「彼はマリーのボーイフレンドよ。」
ジュリーが、たばこに火を点けながら、ちょっと奇妙な微笑みを浮かべながら、横から言った。
「あぁ、そうだったんですか……」
ケンは、拍子抜けしたように言った。
「ピエールの父親は、僕の昔からの友達だったんだ……」
山本は、誰もたずねてはいないのに自分の方から、ピエールの父親とマリーの関係を感慨深げに語り出した。
ピエールの父親は、田中という日本人で、山本とは高校時代からの親友だった。2人は東京の同じ私立の大学に入ったが、田中は大学の4年の時に、一人、ヨーロッパへ渡り、数年間の放浪の後、パリへ落ち着いた。
そこで、当時、ソルボンヌへ入学したばかりのマリーと知り合い、恋に落ちた。二人は一年ほど一緒に暮らしていたが、その間、田中はマリーを日本へ連れて来たことがある。
山本とマリーとは、その時、初めて出会った。山本は、既に大学を卒業していて貿易の仕事を始めたばかりだったので、田中に自分の仕事を手伝うように頼んだが、彼はそのままマリーと一緒に再びパリへ帰って行った。
それ以来、田中ともマリーとも音信不通となり、2年前、仕事でパリへ来たときやっと、マリーの居所を探し当てた。

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しかし、田中はマリーが、ピエールを出産すると同時にマリーの前 から、また、蒸発してしまっていた。
それ以来、山本はマリーとピエールの面倒を見て来ているのだという。
「さっき、ジュリーの言ったことは本気にしちゃいけないよ。悪い冗談なんだから……」
山本は、少し照れ臭そうに白い歯を見せて、笑いながら言った。
「ケン、そんなことないわ。今のは本当よ。少なくともヒデは、マリーに夢中なんだから……」
ジュリーは、山本の方をちらりと見ながら、意地悪そうに笑ってみせた。
「でも、マリーはもっと他の人に気があるみたいだぜ。」
山本は、かなり真剣な顔をして言った。
ケンは、山本がまさか自分の事を言ってるんじゃないだろうかと、一瞬、胸がどきりとしたが、素知らぬ顔で運ばれて来たコーヒーに口をつけながら、話題をそらした。
「山本さん、でも、さっきのドミニクとかいう女の人は、何故あんな乱暴なことをしたんでしょうかね?」

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「ドミニクは、マリーと同じように未婚の母で、ピエールと同じ年頃の息子がいるが、マリーとはどういう訳か以前から仲が悪いんだ。これまでだって、こんな事は初めてなんだが、これに近いことは何度もあったんだ……」
「でも、なぜ?」
「ドミニクは、割と古風な女らしくて、きっちりと母親としての役割を果たしている。それに比べ、まだ若いマリーは、いつも子供をほったらかしては、男と出歩いている。恐らく、そんなマリーに一度はお灸を据えてやろうとでも、思ってたんじゃないか……」
山本は、自分の心境でも語るように事細かに話した。
しかし、多分、それはドミニクに置き換えて、自分の心理状態を吐露しようとしたんではないだろうかと、ケンは思った。
「でも、それにしてもひどい話よネ」
ジュリーは、山本の話を締めくくった。
「ところで、ケン、君は明日は何か予定でもあるのかい?」
山本が突然たずねた。
「いや、別に何もないですけど……」
明日は日曜日だが、久し振りにアルバイトが休みの日だった。
「もし、よかったらジュリーと二人でプールに行かないか? 実は、明日、ピエールを連れて4人で出掛ける予定だったんだが、今日こんな事があったんで、マリーを今晩、僕のホテルへ

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泊めて、明日は二人でアパートを整理しようと思うんだ。ジュリー、その方がいいだろう?」
山本は、吸っていたタバコを灰皿に押しつけながら言った。
「もし、ヒデがそれでいいなら、私は嬉しいわ。こんなハンサムな人と二人っきりで、デートできるんですもの……」 とジュリーは、ケンの腕を取りながら、ケンの肩に頭をもたせかけて、いかにも嬉しそうな素振りを見せた。
「でも、マリーが焼き餅を焼かないかしら?……」
山本の方を見ながら、舌をペロリと出して見せた。ちょうど、その時、マリーがピエールをストローラーに乗せて帰って来た。

14

予定の時刻より5分ほど早く、ケンがエションジュ・リーブルへ着くと、ジュリーは既に座ってエスプレッソを飲んでいた。
彼女は、ケンを認めると嬉しそうに手を振って、彼にテーブルの方へ来るように右手で合図した。
ジュリーは、淡いブルーの男性用のコットンのシャツのボタンを胸元まで開け、洗いざらしのジーンズの上から無造作に羽織り、素足にスニーカーを履いていた。ケンは、ジュリーに挨拶のキスを済ませると座ってコーヒーを注文にした。

   −86− 次へ

二人は、昨夜、山本の紹介で会ったばかりで、お互いの事はまだほとんど何も知らなかった。
「ジュリー、君は一体いくつなの?」
ケンは、運ばれて来たばかりのコーヒーに口をつけながらたずねた。
「17よ。」
彼女は、右手でその栗色の長い髪をかき上げながら言った。
「じゃあ、まだ高校生?」
「もう、高校は卒業したわ。今年、バカロレアの試験に合格したばかりなの。」 「大学はもう決めたの?」
ケンは、ジュリーが自分の抱いていた第一印象の娘とは違って、インテリであることにいささか驚きながら聞いた。
「まだよ。でも、ソルボンヌにしようかとも思っているの……。ところで、あなたは……学生?」
その美しいグレーの大きな瞳でケンを見つめながらたずねた。
「僕は、今、ソルボンヌの学生なんだ。でも、ついこないだからだけどね……。」
「何を専攻しているの?」
ケンは「医学」とだけ答えた。
「へえ、頭がいいのねえ……。でもどうして、お医者さんになろうと思ったの?」
ジュリーは、尊敬の眼差しで、ケンをまじまじと見つめた。

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「僕の父が医者なんだ。小さい頃は、余り医学なんて興味がなかったんだけど、アメリカのカレッジにいた頃、偶然、父の論文を読んで感激して……、それで医者になろうって決心したんだ。」
ケンは、自分の父が医者であり、医学者であることに誇りを持っていた。
「お父さんは、今どこに居るの?」
「ローザンヌの大学で癌の研究をしているんだ。」
「ローザンヌ? 実は、私も生まれはローザンヌなのよ。国籍はフランスだけどね。小学校まではローザンヌに住んでいたの。」
ジュリーは、ローザンヌと聞いて嬉しそうだった。
「じゃあ、そろそろ行こうか。」
ケンは時計を見ながら言った。
このままでは、ジュリーは話しに夢中でなかなか腰を上げそうにないように思えた。

15

二人は支払いを済ませると、ポルト・ド・クリシーからメトロに乗り、モンパルナスでメトロを乗り継いで、コンコルド広場へ着いた。

   −88− 次へ

階段を昇って外へ出ると、空は青く澄み渡り、陽差しが二人の肌に容赦なく照りつけた。
プールは、セーヌ河畔に停泊した船の上にあった。
ケンは子供の頃、両親と旅行した時に乗ったクイーン・エリザベス号のプールを思い出したが、それでもこんなに大きなプールではなかった。
この船は、プールだけのために造られたもので、50mプールとダイビング用のプールの2つがあった。
多分、人口過密のパリの土地事情を考慮して造られたのだろう。
プールサイドは、避暑に行けなかった若者や中年の人々でいっぱいで、皆、思い思いに夏の光を惜しむかのように日光浴を楽しんでいた。特にケンの目に止まったのは、東洋人が多いことであった。ジュリーに聞いてみると、何でも、最近は特にベトナムからの難民が日増しに多くなって来ているとのことであった。
しかし、難民とはいえ、彼らの顔には、その苦悩の片鱗も読み取ることはできなかった。それどころか、驚いたことには、皆、表情が生き生きとして明るかった。
パリという場所が彼らを明るくさせるのか、それとも民族性の問題なのか、ケンは不思議でたまらなかった。
「ケン、上の方の飛び込み台の方へ行きましょうよ。」

前へ −89−   

ジュリーは、ケンの手を引っぱって飛び込み台のあるダイビング用プールの方へ、階段を昇って行った。
ジュリーは、明るいオレンジ色のビキニをつけていた。
17歳とはいえ、胸の膨らみから腰の線にかけては、既に成熟した女性であった。
「私が先に飛び込むから、あなたも私の後で飛び込むのよ。いいわね……」
そう言うとジュリーは、2番目に高い5m用のジャンプ台から空中へ飛び出すと、真っ逆さまに、頭から水飛沫を上げながら突っ込んで行った。
しばらくすると、ぴょっこりと水中から頭を出して右手で髪をかき上げながら 「早くいらっしゃいよー。」と手招きをした。
ケンは、思い切って一番高い10mのジャンプ台へ上って行くと、大きく一息、深呼吸をした後、空中へ思いっ切り高くジャンプして、前方へ2回宙返りをして、そのまま頭から水の中へダイブした。
彼が、プールサイドの梯子を伝って途中まで上がると、ピンクのマニキュアをした見覚えのある白い手が伸びて来てケンの右手を掴んだ。
「ケン、久し振りね……」
そこには、相変わらず美しいブロンドの髪にブルーの優しい瞳で微笑んでいるジェニーの姿があった。

   −90− 次へ

ケンは、一瞬、自分の目を疑ったが、それはやっぱり、あのジェニーであった。
「ハーイ、ジェニー、本当に久し振りだね。」
ケンは、ジェニーに助けられてプールサイドへ上がると、彼女を両腕の中に抱いて、両頬に挨拶のキスをした。でも、本当に信じられなかった。数ヵ月も思い続けていたジェニーにこうして偶然こんな所で会うとは……。
ただ、嬉しさだけが胸の奥の方から込み上げて来た。
日本で初めて会ったときは、むしろ煩わしくて迷惑にさえ思ったのに……。どうだろう……、今は、こんなに胸がときめくほど、嬉しさで一杯だ。
『人間の心なんて本当に分からないものだ。』
とケンは思った。
「ケン、紹介するわ。こちら、私のフィアンセのウォルター。こちらは友達のケンよ……」
ジェニーは自分の後ろに立っている背の高いブロンドの青年をケンに紹介しながら言った。
その青年はケンの目をみつめながら
「僕は、ウォルター、よろしく……」
と右手で強くケンと握手を交わした。
「僕は、ケン……。こちらこそよろしく……」
「…………………………………………」

前へ −91−   

と、ケンは、ウォルターと握手しながら挨拶を返したが、突然の喜びと驚きで、心臓が口の中から飛び出しそうな衝撃を覚えた。
『まさか、この男がジェニーのフィアンセだなんて。ジェニー、君はそんなこと一つも僕に言っていなかったじゃないか!』
ケンは、心の中でそうつぶやくと、そのままその場で崩れそうになるのをやっとの思いで耐えた。
「ウォルター、今日は会えて嬉しかったよ。ジェニー、僕は今日は連れがいるから、失礼するよ。また、会おう……」
と言って、ケンは二人に別れを告げた。その場を一刻も早く離れたかった。
ケンには、ジェニーの「ケン、ちょっと待って! 話があるの!」という言葉など全く耳に入らなかった。
そのまま、階段を急いで降りると人垣をかきわけながら、カフェテラスへと向かった。
カウンターへ座ると「ビール」とだけバーテンダーに向かって言った。
「ケン! どうしたのよ……。急にいなくなっちゃって、私、随分捜したのよ……。さっきの人たち、お友達?」

   −92− 次へ

ジュリーは、カフェテリアのカウンターに座っているケンをやっと見つけると、横に座りながら声をかけた。
「ジュリー、僕……、急に気分が悪くなったんだ。悪いけど先に帰るよ。」
と言って、ケンは注文したばかりのビールを一口飲むと、心配そうな顔をしているジュリーを店に一人残して、足早にその場を立ち去った。
 

16

その後、どうやってドームまで辿りついたのか、自分でも覚えがなかったが、気がついてみると、外はもう既に暗く、一人部屋の中で、ベッドの端に腰かけていた。
夕方、シャルルがやって来たが、ケンにはドアの所まで歩いて行く力が、残っていなかった。
シャルルは、しばらくドアの外からケンを呼び続けていたが、やがて諦めて帰っていった。
彼の靴音が、空しく人気のない廊下に谺するのが、ケンの耳に響いて来た。その夜、彼は、まんじりともせずに、ベッドの上に座ったまま過ごした。
 

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            第3章「別れ」へ続く
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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